哲学的な話…とも思わないが、意味のない事などないのではないかと思った。
写真を撮る意味
カメラ好きは世に沢山いる。
私だってその一人だし、巻き込んだ知人もそうだろうと思う。
だが、カメラ好き=撮影好きとならないのも一つの道ではないかと思う。
撮影が好きだからカメラを買う、という行動原理は実にわかりやすいのだが、カメラが好きだからカメラを買うが、あまり撮影をしない、という人がいるのもまた事実であり、私などはカメラ好きという割には撮影が少ないように思う。但し、カメラ好きでありながら撮影をあまりしない人は総じて撮影が嫌いという事ではないと思う。
どういう事かというと、行動から入る人と、カメラというメカから入る人がいる、という事である。
女性でカメラが好きという人の大部分は撮影が大好きという人が多いが、それは女性でメカ好きという人が少ないからかもしれない。
では、そうした撮影が好きという人は、自らが撮影する写真にどんな意味を感じているのだろうか?
正直、この答えは私の中にはない。何故なら、私はカメラ好きだが撮影をあまりしないからだ。私がそうであれば答えられるが、そうでないから答えられない。
何を思って撮ろうとするのか?
何を撮りたいのか?
小難しい事は考えていない、と直感的に動く人は言うかも知れない。実際、私の様に撮影するという事に何も考えを持たず、自然体で撮影する人もいるだろう。
そういう人に問いたい。
その撮った写真をどうしているのか? と。どうしたいのか? と。
撮影というインプットから写真というアウトプット
私の場合、カメラというメカが好きでカメラを買った。
もちろん、撮影というものも嫌いではない。ただ、私自身が出不精だったりして外にあまり出歩かない為、撮影チャンスが極端に少ないだけの事である。
もし私を外に連れ出す人がいたならば、撮影する機会はもっと増え、アウトプットとして出力される写真の枚数は激増するかもしれない。
私自身、撮影した写真は何の為の残し、どうしたいのか? という明確な回答を実は持っている。
何を撮りたいか? という事に関しては未だ答えは出ていないものの、アウトプットされたものについては、その意味はちゃんと答えがあるのである。
その答えとは「自分が生きた時代の瞬間という時間を切り取る」という事をしたい、という事である。
そして残した写真に関しては、いつかネット上で全てを掲載するような場を作りたい、と考えている。
誰に見てもらいたい、とかそういう事はどうでもいい。自分が公開したい、というだけの事である。自己満足も甚だしい、他人から見れば迷惑千万な話かもしれないが、一つの自己主張の形である。
私がレンタルサーバを永年契約した最大の理由はココにある。
私とは遙かにレベルが違い、遙かに熟練した人がこんな記事を書いていた。
impress デジカメWatch
http://dc.watch.impress.co.jp/docs/news/exhibition/20150227_690373.html
この記事を読んで、私はやはり行動には何かしらのポリシーと夢があった方が豊かになれると思った。
そう思ったあと、今の私にはまだまだ足りないものがあるな、と実感した。
動画よりも静画
私は記録というものは動画の方が望ましいと思う事は多々ある。
しかし、動画は何時いかなる時でも決まったベクトルしか周囲の人に与えない、と思っている。見ているものが動き、音を出すわけだから、観る者がしらない情報もそこから得られてしまう。それはメリットでもありデメリットでもある。
メリットとしては、事実をある程度明確に受け入れられるという事。
デメリットとしては、想像の域が狭まるという事である。
動画が当たり前の今の時代と、動画というのが身近ではなかった昔の時代では、そこに生きる人々の想像力の幅は明らかに昔の時代の方が豊かだったように思う。
これはテレビと小説との比較でも同じである。
静画である写真には動画ほどのイメージベクトルはないかもしれないが、それ以上の想像の余地があり、そこから幅広い感性が得られるメリットがある。
その幅広い感性が人と人とを繋ぐ事もある。
意外性も得られるだろうし、共感も得られるだろう。
動画ももちろんそれが出来るとは思うが、心に刻まれた印象の深さは動画よりも静画の方がより深いように思う。
もちろん、私は動画を全否定するつもりはない。
アクションカメラの発展によって、今まであまり知られなかった迫力の映像が得られるようになったのは実に良い結果だと思う。
自分もそういう動画を撮りたいと思う事もないわけではない。
だが、やはり私は静画である写真の方が記録という意味では良いアウトプットではないかと思う。
前述の記事では、子供が精神的自律を果たす10年を1,000枚の写真で語る事を目的としていた。何かこう、響くものを感じないだろうか?
みんなにカメラ好きになってもらいたい
カメラとはこうした意味のある一瞬を切り取る事ができる機械である。
ただ何気ない日常を切り取ったとしても、そこにはいろんな思いがあったりする。
問題はその何気ない日常を意味のあるものとして捉えるかどうかだけであり、アウトプットした結果をどう扱うか? という事だけが要求される。
その要求に応える人は撮影した写真をどう扱うかの道を心に決めているし、応えない人はただ埋もれるだけのデータを積み上げるだけである。
どうせなら…埋もれさせずに意味のあるものとしての道を与えてもいいのではないだろうか?
私はまだまだ活動が足りない。
風景を撮るにしても、足の運ぶ回数が少ないし、撮影自体のキャリアも少ない。
出不精といわず、もっと外に出て撮るべきだと思っている。
あとはその思った事を行動に移すだけだが…今はまだその足取りは重い。
コレから私自身が変わっていかねばならないところだろう。
そういう思いをより強めてくれた記事に出会えた事を感謝したい。