私もこうやってほぼ毎日情報を垂れ流しているわけだが…
Twitterの文字数制限
Twitterのツイート文字数は通常140字に制限されている。これはTwitterが始まった頃からの特徴の一つだったわけだが、昨年だったかこのツイート文字数140字制限を撤廃するのではないかという話が出た。
結果的にはその話は履行されず、今も140字に収まっているのだが、私的にはこの140字という文字数は適当とは思うものの、せめてURLなんかはこの制限内に入れて欲しくないと思っていた。
ショートURLを使用する事で、URL文字数は少なくできるとはいうものの、結果それを含めての140字だと、ほんの僅か足りないような気がするからだ。
このURLの文字数に関して、今、一つの噂が出回っている。
それは、URLと画像に関してはツイート文字数にカウントしない、というものであり、現在の24文字としてカウントする、という制約を変更するというのである。
現在は、URLはどんなに長くても24文字としてカウントするため、140字から24文字を引いた116字が実際のツイート文字数になるワケだが、噂ではこれを撤廃、URLと画像はあくまでもツイート外のものとして扱うというのである。
まぁ、実際はどうなのかは今後変更されるかどうかを見守るしかないのだが、私としては妥当な進化ではないかと思っている。
ちなみに…DM(ダイレクトメッセージ)の文字数は、2015年6月には140字から10,000字へと拡張されている。私としては余り使う機能ではないのだが。
情報
このTwitterの進化(退化?)というか、変更については、情報を頻繁に取り扱う現代社会を鑑みれば妥当だと思うし、真っ当とも思う。
だが、一番恐ろしいのは現代人のほとんどの人が、そもそも情報というものの意味をちゃんと理解していない可能性がある、という事である。まぁ、私自身もその一人と言ってしまえばそれまでだが。
昨今において、情報はいとも簡単に手に入り、また拡散されるものである。
だからかもしれないが、現代人のほとんどの人は、これら情報を知っているという事と知らないという事において、知っている事の方が重要…転じて、知らない事の方が問題と考えている節があるように思う。
もちろん、情報は知らないより知っている事の方が、得をしたりする事も多い。だから余計に情報を知らないより知っているほうが良い、と考えてしまうのだが、世の中には知っている事が問題になる事だって多分にあるのである。
“知らぬが仏”という言葉があるが、こうした言葉があるのにもちゃんとした意味があるのである。
善意と悪意
よく、裁判や取り調べにおいて「貴方はその事を知っていたか?」と聞かれる事がある。
これ、法律でいうと「知っている」という事は「悪意」という事になる。
逆に「知らない」となると「善意」という言い方をする。
つまり、情報を知っている事は「悪意」であり、知らない事は「善意」というのが、法律における区分になるのである。
これは実際に悪意があったとか善意があったとか、そういう事実とは無関係であり、感情というものが全く含まれることはない。
何故法律上ではそういう区分になっているのか? という本当の理由はわからないが、民法などを勉強するとこういう区分をするという事を習うのである。
ここから考えると、情報は何でも知っていてよいものなのか? という事を考えてしまう。つまり、知っている事が多ければ多いほど「悪意」が多いわけであり、知らなければ知らないほど「善意」だと言えるワケである。
この意味と、前述した故事ことわざを照らし合わせると、面白い考え方ができる。
知っていれば知恵によっていろいろ狡賢くなるが、知らなければ狡賢くもなれないという事である。
人間には知恵というものがあり、知っている事を利用して悪巧みをしてしまうかもしれない。だが、そもそも知らなければ悪巧みができないワケである。
まさに、これ善意と悪意という言葉の意味と合致するではないか。
意外と現代人はこの真意を分かっているようで分かっていない。私にはそう思えてならない。
情報拡散時代だからこそ
現代は情報というものが恐ろしい程の量感をもって飛び交っている。
もし情報に質量があったなら、昔と今とでは比較にならないぐらいの質量移動があるハズだ。
それほど情報が簡単に扱われ、飛び交っている。
私はこの情報拡散という事が悪い事だとは言わないが、世の中を丸く収める場合、時には「知らない事」も重要なのではないかと思う時がある。
知らない事で損をするかもしれない。
そういう人もいるかもしれない。だが、知らない事でその人が幸せでいられる事もまたあり得るのである。
知っている事が全て良しなのではなく、知らない事で平穏でいられる…時にはそういう事もあると思わないだろうか?
責任
情報を知るという事は、その情報の重さに比して責任を負うという事である。
私は、会社でネット関係のセキュリティや設定に関しての機密情報を扱っている。管理者だから知らないわけにもいかないし、また逆に知らないと大問題である。
だが…できるなら本当は知りたくはない情報である。
何故なら、もし会社で情報漏洩が起きた時、まず最初に疑われるのは外部からの侵入者かもしれないが、内部からだとするならば情報を知っている私が最初に疑われるのであり、当然だが私からすると迷惑千万な話である。
情報を知っているという事は、常にそうした嫌疑の対象となるという事でもあるわけで、何でもかんでも知っていれば良いというのは、あらぬ疑いをかけられる事に直結する。
知るべき人が知っていて、知らなくても良い人は知らなくて良い。
私は、情報とはそうしたものであり、責任の区分によって、知る知らないを考えた方がよいものと思っている。
自分以外の情報というものを扱うようになると、こういう事を痛感する。
Twitterの文字数制限とは全く違う話になったが、情報というものについて、ちょっと考えてみる機会にはなったのではないかと思う。
知る事が全てではない。
私はそう思うが、貴方はどう考えるだろうか?