…次の冬こそは参加したい。
自分を知る機会
私は年2回、奇妙な縁で知り合った知人と会うタイミングがある。
まぁ、どういった縁かはあえて語らないが、その知人達と会うというタイミングは、ある意味、自分という存在を再確認するチャンスでもあり、今の自分の立ち位置を基準にして良いのかを計る機会だと思っている。
合う知人達のそれぞれの立ち位置は、私とは全く異なる人々であるため、今の私のベクトルとも全くかみ合わない。
それでいて、共通項と言えば同世代といったぐらいの話でしかなく、そういった中に飛び込む事で、今の自分の方向性とベクトルの強さ、そして着地点を再確認して、軌道修正を行う場として見ている。
が、ここ1年近く、つまり2回のタイミングを失い、結局今年も知人に会う事はできなかった。家の事情と言えばそれまでなのだが、こういう事がないように毎回事前に予定を録っているにも拘わらず、今回もまた急遽行けなくなるという予定外の事態になってしまった。
毎回「参加する」と知人達に言っているのに、直前になって「申し訳ない」と言わなきゃならない状況というのは、本当に申し訳なく思うし、何の為に前もって予定を組んでいるんだという話になるのだが、何をどういっても後の祭。
結局は今回も見送りという事になってしまった。
もう一つの機会
この知人とは別に、もう一つの知人と合うタイミングというのもあるのだが、こちらは前々職で一緒に仕事をしていた人達のベクトルである。
こちらは、知人達は未だに以前の仕事を継続しているため、方向性は固定されている。
ただ、私だけがその方向とは違う道に進んでいるので、私が以前進んでいた方向の現在の動向などの話を聞く場になっている。
そうした話を聞く度に思うのは、私の今の方向性は多分私には不向きであり、以前進んでいた道がやはり合うのかな? という事である。
ただ、これは正しい判断とは思わない。
何故なら、方向が決まった一方向に固定されていて、しかもそれが私の好きな方向だから、私が身を乗り出してしまえば、気に入らないわけがない道だからである。
今の私の立ち位置と、そして向かいたい過去の道とを比較して、私がその現況に順応できるかは、また別の話なのである。
だからこれらの知人との再会は、自らの立ち位置の確認というよりは、私が以前見据えていた道の今の状況確認ぐらいしかできないと思っている。
まぁ、実際には「私が今その道に戻ったら、何を考え、何をやろうとするのか?」といった、仮想思考はするが、その道に戻れる宛も確実ではないし、飛び込んで行くには背負っているものが邪魔をするので、あくまでも仮想の話でしかない。
時代の変化
こうした知人達との話をいろいろ聞くと、時々自分は時代に取り残され始めたかな? と思う事がある。
今回は機会を逃したので、その感覚はまた次回へとお預けになったが、自分のいつも見ていない方向の話を聞くと、自分が時代と共に歩んでいる感覚がかなり薄れている事に気付く。
今の私の生活は、結構型にはまった生活なんだろうな、と思うと同時に、そうなりたくなくてかつては自分の好きな道を選んだにも拘わらず、結局、自分以外の要素で型にはまらざるを得なくなった今の状況は、世間一般ではよくある話なんだろうな、と実感する。
ほとんどの人は一人で決めて一人で生きて行けているわけではない。
おそらく大部分の人は家族の影響を受け、その家族の影響で自らの道に制限を掛けざるを得ない生活をしているハズである。
社会人になりたての頃は、そうしたしがらみがないかもしれないが、年齢を重ねればそうならざるを得ないというのが、人の生きる道なのかな、と最近は思うようになった。
もちろん、思うようになっただけで、それが絶対的なものとは思っていないが、これに縛られ続けているから、今の私のような生き方になってしまったんだろうな、と感じる。
多分…正しくない。
が、ほとんどの人はこの縛りの中で生きていくしかない事を感じているのではないかと思う。
そして、その生き方は、時として時代の変化に対応できている生き方ではない。だから、いつの時代も新しい時代の変化は若い人が作っている。しがらみがあってはならないのだろう。
と、今回知人と会うことができなかったが故に、自分の立ち位置とベクトルの再確認ができなかったので、今の自分の基準が正しいのか正しくないのかを見失っている。
半年後こそ、自分のチューニングができるといいなと思っている。