令和という新しい年号に変わってから早1ヶ月半が過ぎたわけだが。
老人とプリウス
『彼は老いていた。ハイブリッドカーのプリウスで街に乗り出し、1人で運転をしていた。危なげに走るだけの日が84日も続いていた。最初の40日は妻と一緒だった。しかし、その後も危なげな走行を続け40日が過ぎると、妻も家族と一緒に告げた。あの老人はもう完全に運転適齢期を過ぎている、と。運転適齢期は30代から50代くらいまでと言われている。妻は家族との話し合いの通りに老人に覚悟を決めるよう話を切り出す事を考えていた。老人が傷だらけのプリウスで帰ってくるのを見るたびに、妻の心は痛んだ。』
アーネスト・ハミングウェイの「老人と海」を現代の問題としてパロッてみた。
何故こんな事を思いついたかというと、それを連想させるほど、最近老人の運転する車、特にプリウスの暴走事故が多いからである。
しかも…気のせいかもしれないが、この令和という時代に入ってから急激に増えているように思える。
もちろん事故を起こすのは老人だけでない事はわかるし、時にはマナーの問題で事故に発展する問題もある。
あおり運転などは特にマナー問題…というか、他人への配慮が欠けていることによる事故といえるだろうし、問題は多岐にわたる。
だが、人々が平和で幸せな時代になって欲しいと願った令和という新しき時代になり、それらはまだまだ影も見えないほど、目に映るのは事故や事件の問題ばかり…そう思えるのである。
踏み間違い
こういう問題を一言で片付けるのはナンセンスだという事はわかってはいても、一つの傾向として考えられる事に対してその問題を提起する事は有用ではないかと思う。
私が思うに、ほとんどのケースでパニックによるアクセルとブレーキの踏み間違いが問題にあると思っている。
こんな事、私が思いつくぐらいの事だから、世間の人も大部分が気付いている事ではあるだろうが、このパニックになった時の制御を何とかしないと、こうした事件は解決しない。
私は、少なくとも今の車の制御方法が簡易化された事が、パニックによる踏み間違い問題を助長していると思っている。
特にオートマチックによる変速制御は、運転者の技量を極限まで削り、安易にしてしまった。昔はアクセル、ブレーキ、クラッチと変速ギアシフト操作が必要だったものを、今はアクセル、ブレーキ、形だけの変速シフト操作でできるようにしてしまっている。しかもシフト操作は一度Dレンジに入れたなら、前進するだけなら他の操作は不要である。
まずもって人間に緊張感を与える事のない少ない手順と操作で車が走り出す仕組みになっている。
これでは気が抜けた運転をしていても仕方のない話である。
マニュアル操作は、手順が多い分、運転者に強いる確認は多い。もちろん、その操作も体内で自動化される為、ある程度はイツモの繰り返し動作になってしまうが、それでも人間の中にあるスイッチを呼び起こす事ぐらいの効果はある。
今のAT操作は、人間にバカになって下さい、と言わんばかりの操作方法だと私は思っている。これでは踏み間違いが起きても、仕方のない話ではなかろうか?
高度自動制御
車が危険を察知して予防、補正してくれる機能が最近は当たり前になってきた。
センサーによって車がイキナリ前進するのを止めてみたり、ぶつかりそうになったらブレーキをかけたり、車線をはみ出しそうになったらレーンに戻るよう補正したり、といった支援システムである。
もちろん、事故を防ぐ為の手段としてこういう方向性もアリといえばアリであるし、今の時代はコチラでの対応を義務化する流れになりつつある。
私も反対はしないのだが、これも人間がバカになるくらい自動化が進んだなれの果てではないかと思う時がある。
確かに人間より確実に危険を察知し、予防してくれるだろうとは思うが、これが「主」となってしまったら、人間は本当に不要になると思う。私はこうしたシステムもあくまでも「従」でしかなく、主たるドライバーを補佐するシステムでなければならないと思っている。
近い未来、自動運転というのが当たり前になってくるだろうが、もしその自動運転で事故が発生した時、その事故の責任は誰に起因するのだろうか?
自動運転だから絶対に事故は起こさない。
そういう考え方を前提として自動運転が一斉に開始されたなら、その万が一が起きた時の責任の所在は、誰になるのか?
車の運転が民間に下りてきてから長い年月が経つが、そこには常にドライバーの責任が追従してきた。そこに責任があり、それでも運転するという事で成り立ってきた社会である。
それが自動運転の介入によって揺らいだ時、責任までをも除外する事など、出来る者なのだろうか?
私はそうした責任は常について回るものと思っているし、そうあるべきと思っている。
高齢化社会と車
だが、そういいつつも、老人に車という移動手段が必要なのも理解している。
単純に免許返納されれば事が済むわけではない。
特に地方は、車というデバイスの必要性はぐっと高くなる。
公共機関を使って移動すれば…なんて言えるのは、都会に住んでいる人の発想で、地方在住者の視点でモノを言っているとは言えない。
この問題の根底を解決しない事には、免許を返納したくてもできない、という高齢者も多いはずである。
起きる事故に対してその必要性の是非をちゃんと把握した上で対策しないと、有害になりそうな無害な人という理由だけで規制してしまいかねないところにこの問題の根深さがある。
『推定無罪』という言葉があるのと同じで、こちらも推定ではあくまでも無害だという理念の元、対策しないと今後の高齢化社会をより締め付けてしまうだけになってしまう。
今の所、一定の年齢以上の場合は特別な規制の下に免許を発行するような流れが規定になりそうなところもあるが、これもやってみない事には効果の程と実害の程が見えてこない。
だが、それでいい。起きる前にやってしまい、そこで生まれた問題は一つ一つ潰していくしかない。
おそらくこの問題は、今後の日本社会のスタンダードになっていくので、今最適解が出てくるとは限らないが、取り締まらないわけにもいかない問題なので、やるしかないのだ。
やってみて変えてみる。それでトライ&エラーでよりよいルールにするしかないと私は思う。
ま、私がこんな事を考えた所でどうにもならないのだが、世の有識者の方々にはあくまでも『推定無害』という理念だけは忘れないで欲しいと思う。