Blogを継続的に更新するのをやめて、3ヶ月が経過した。
いろいろ変化した
Blogを毎日分更新から、気の向くまま更新に切替えてから3ヶ月が過ぎた。
時間の使い方も大きく変わったが、だからといって私の介護生活が楽になったという事はない。
逆に、介護生活の毎日の私の行動がここ最近大きく変わってきたを実感し始めている。
というのも、母の食事の大部分を私が作っている事実に気がついたのである。
要介護者である母は、既に食事は硬いモノが食べられず、柔らかいものやキザミ食でないと食べる事ができない関係から、ほぼ毎日食べるものが固定されてしまっている。
ただ、流石に毎食同じだと飽きるので、昼と夜とでメインとして食べるものを変えている。
昼は麻婆豆腐、夜はクリームシチューにしているのだが、共にほとんど飲み込むだけで食べられるように食材加工しているのだが、以前はこの料理そののをヘルパーさんに頼んでいたところ、今はもう全て自分で作るようになったのである。
料理の経験などほとんどなかった私としては、大きな変化であり、しかも普通のレシピ通りに作れば良いというものではないので、いくらかの試行錯誤がそこにはあったわけで、自分で言うのも変だが、よくできたな、と改めて思うことがある。
特にクリームシチューなど、普通に作れば野菜がゴロゴロ入っていてのシチューだが、母は喉が細くなり、しかも噛む事に問題が出てきているので、中に入れる食材を全てペースト状にして混ぜ込み、クリームシチューの素でそれらペースト状のものを煮込むという事をしている。
なので、アレンジレシピといえば聞こえはいいが、そこには多分に時間のかかる食材加工が加わる。だからBlogを書かなくなった時間がすべて調理に回っている感じである。
麻婆豆腐にしても、挽肉を入れる戸その挽肉が喉に抵抗があるとして受け付けないので、代わりになるモノを入れてレトルト調理である。
今の私は、まず母が口にして飲み込める事を前提とした調理方法を考えて、食事作りするしかないので、日々、飽きの来ない他の料理を探しているところである。
自宅介護の限界点
さすがに2年半も自宅で、しかも一人で介護をしていると、何ができて何ができないかというのも見えてくる。
一人、といっても、介護保険を利用した訪問介護やデイサービス、訪問看護などは利用しているが、夕方から朝にかけては一人での介護になるため、そこでできる事、できない事というのが、ハッキリする事に違いは無い。
私の場合、できる事がかなり限定的だという事は間違いが無く、他の人よりもできる事が少ないというのも既に見えているのだが、できる事として食事にフォーカスした事が、前述した話に繋がっている。
もちろん、他にも体位変換などもしなければならず、また痛みに対するケアもして行かねばならないので、食事だけが自分の領域というわけではないのだが、できない事は早々に諦めて、専門家に任せてしまい、自分のできる事にフォーカスした方が良い、という事はこの2年半で学んだ事である。
そうした、自分のできる事を繰り返していく中で、時折限界点が見えてくる。
要介護者の母の体は、永遠に毎日同じ状態ではないので、その変化が一定の限度を超えた時、自宅介護の限界点が見えてくる。
母は体の拘縮が始まっており、右足はほぼ膝が90℃近く曲げている状態に固定してしまっている。このおかげで、寝ていても足を伸ばして寝ていられないのだが、この拘縮が進みすぎると、体勢の限界点を迎えてしまい、自宅での介護が出来なくなる可能性がある。
最近、この拘縮の影響で足の痛みが酷くなってきているのだが、この痛みが耐えられないレベルになると、もう自宅介護は無理だろうと思っている。
本当はリハビリを毎日のように行って、この拘縮を和らげる必要があるのだが、私の住んでいる地区の問題で、訪問理学療養士などがいないため、リハビリ出来ずにいる。
今後、この問題がもっと具現化してきたならば、もう自宅介護は無理という事が来るかもしれない。
本人の意思
母は認知症にはなっていないので、失語症で言葉を失ったとしても、自分の意思はしっかりしている。
なので、特別養護施設(通称特養)に入る事を断固拒否している事は私も十分理解しているが、この事で自宅介護の限界点を向かえた時、大きな悲劇を生む事が予想される。
本人は自宅にいたいのに、受け入れる側が自宅介護できない、という事になった時、そこに要介護者の意思がどこまで受け入れられるか? という問題が起きるのである。
私の職場に同じように介護している人がいたのだが、その人は特養に入れる事で自分の生活は普通にもどった、と言っていた。
完全に外部に介護を委託する事で、介護する側が開放された、という事である。
介護する側としては、この方が本当は幸せである。おそらくそれは間違いが無い。
ただ、要介護者側からすると、それが幸せかどうかは全く別モノで、自宅にいたいという意思がいる人からすれば悲劇である。
ウチは母が頑なに施設に入る事を拒絶しているので、自宅介護の道しか選択肢がないワケだが、前述したように、自宅でできる事にも限界があるので、世話をしきれなくなった時にその悲劇が訪れる。
もちろんそれだけでなく、介護する側が疲れ果ててしまい、生活破綻がおきるようになってもこの悲劇は訪れる。
要介護者本人の意思を尊重するのは当たり前の事ではあるが、それを受け止めきれるかはまた別の問題というのが、何とも悲しい現実である。