依存するという事はあまりよい事ではない…と思っている。
ただ、人として誰かに依存せずに生きていける人が一体どれだけいるのか? とも思う。
私は今までもちろん一人で生きてきたなんて傲慢な事は思った事はないが、それでも最近、妙な所で依存している事を感じることが多くなった。
過去の私はいろんな人に助けられてで生きてきた。
特に父親と共に土建関係の仕事をしていた所から、自ら望んだコンテンツ業界へと転進した時は、まさしく人の力に頼って転進した。
そしてその転進先では、ほぼ人に助けられて仕事をしていた。というか、この業界は自分の実力だけでどうにかできる世界ではなかった。いや、正確に言うなら、他人を黙らせる事のできる実力を持ってしまえば他の人がそれに続いてくる…そんな感じかもしれない。
だが、残念ながら私はそんな実力など持ち合わせていなかったし、結局は他の人の力に依存して仕事していた。
だから、今更誰かに依存して生きていくことに違和感を感じる事はない、と思っていたのだが、ふと昨日の父親の問題に直面した時、私は新たに依存している人がいる事を自覚し、そしてその依存の傾向が今までと違う事に気がついた。
今までは私が他人の力に依存して、自分を有利にする方向だった。
しかし私は今、明らかに自分を有利にするのではなく、自分の内面に問いかける…というか、自分を有利にする、依存している人に物理的に助けられるのではなく、精神的に助けられ、結果自分の中に何か追い込むモノを作る(つまり有利どころか不利にしている側面もある、という事)、という依存を感じている。
明らかに前とは違う依存の仕方に、私自身も戸惑っている。
そもそも、これを依存と言うべきなのか? とも思うのだが、たしかに私はその人に依存しているし、それがとてつもなく重大である事に気づいている。
自分に隠された能力がある…というわけではないだろう。
だが、その依存している人に何か言葉をもらうだけで、私は自分の中に問いかける。
その人が言っている意味を深く理解し、それを実現するにはどうすれば良いのか?
今まで怠惰だった私が、自分の思考の隅々まで総動員してフル活動をしようとする。
こんなの、今までの私にはなかったことだ。
いや、過去に数年間、そういう状態にあった事もあるかもしれないが、その時と今とでは状況も何もが違う。
明らかに、私の中で化学反応が起きている事を自覚する。
こんな感覚、昨日の私の精神状態が良くなかったからか? とも最初は思った。
だが、翌日になってもその感覚は消えることはなく、逆に強くなっていた。
今までうやむやになっていたものがちょっと変化したのは昨年の12月の頭だった。
その時、私の旧知の仲の一人に私自身が「変わった」と言われた。
その変わり様は、今まで埋められなかったものを埋め尽くし、今まさにその上を行こうとしているように見える、という事だった。
物理的な話ではない事はすぐに分かった。自分の中で何かが変化している事を自覚していなかったワケではないが、それを他人に指摘された事で、何かが弾けた。
だが、その時には弾けただけで、何がどうなのかが分からなかった。
その“分からなかった”といううやむやになっていたものが、昨日明らかに変質したように思う。要するに、依存している人がいた、という事である。しかも、今までと全く異質な方向で。
この依存しているという意味が、今までと同じ“依存”という言葉で処理していいのかはわからない。
ただ、こういう依存関係は悪くない、と思い始めている。
自らを奮い起こす事ができるなら、そういう依存もアリなんだろうと思う。
本来なら、依存という言葉はあまりよくない方向にとられがちだ。だが、人は少なからず誰かに依存している。それが物理的か精神的かは別の問題であり、またそれが能動的か受動的かすら、別の問題だ。
今までの私はどちらかというと物理的に、しかも受動的に依存していた。
それが精神的に、しかも能動的に依存した。それが今回気づいたことだ。
なら依存という言葉でいいのか?
もっと適切な言葉があるのかもしれないが…その辺りは、もう少し時間をかければ他の表現が思いつくかも知れない。
ただ…
一つ気になるとしたら、私が依存している(であろう)人が、この事をどう感じているか? という事だ。
少なくとも私が何かしらのアクションを起こしての反応だから、そのアクションがどう受け止められているか? という問題も考えねばならない。
人は一人で生きているわけではない。
まさしくそれを証明する部分でもある。