99年後に誕生する予定のネコ型ロボット「ドラえもん」。
この「ドラえもん」が優れた技術で作られていても、生物として認められることはありません。
それはなぜですか。理由を答えなさい。
(2013年 麻布中学校入試問題 理科)
このような問題が麻布中学校の入試問題として出されたようだ。
しかも選択式の問題でなく記述式の問題として、である。
ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw553360
この問題の答えを、単純に考えて「ドラえもんはロボットだから」と答えた人は、あまりにも単純であり、当然、この問題の解答とは言えない。
この問題の趣旨は、間違いなく理論的思考で回答する事にあり、またその想像力、そして発展性のある思考力を問うことにある。
私はこういう問題が出てくる麻布中学の入試は実に理にかなっていると思う。
私が学生だった頃、私は勉強が大嫌い…という程ではなく、ただ純粋に学校のテストがキライだった。
理由は単純。ただの記憶力に頼る出題しかしてこないからである。そこに想像力も思考力も問われない。比較的そうした記憶力とは異なる能力が必要と思われる数学ですら、公式を知っていれば後は計算するのみ、という出題が多く、唯一違っていたのは証明の部分だけだったように思う。
そうした学生時代のテストに関して、私が他の生徒と明らかに異なる性質を見せた(と当時の担当教師から言われた)のが、現代国語の小論文である。
小論文は、単純に記憶で何とかなる問題ではなく、そこには少なくとも思考が伴い、場合によっては想像力が必要になる。だから回答も千差万別になりやすく、もちろん回答例は存在するだろうが、多種多様な回答が集まるのだそうだ。
だが、私の現代国語担当教師は、そんな小論文も「実に似通った教科書通りの回答が多い」と嘆いていた。授業で扱う題材は、教科書の内容と同じ参考書が出回っている事から、みなそれを記憶して回答しているのである。それでは答えが似通うのは当たり前である。
だが、私はそういう参考書には頼らない為、他と明らかに違う回答をしていたようだ。
だから私の回答は間違っている事も多々あった。だが、その現代国語の担当教師は、5点満点の問題に対し、その回答に論理的な意味が含まれている場合に限り、間違った私の回答へ3点の点数を付けたりした。
私は間違っているのに点数が付いている事は間違っている、とその教師にくってかかった事もある。だが、その教師はこう言ったのである。
「この問題の趣旨は、正解を答えるだけではない」
最初は意味が分からなかった。正解を答えるのがテストであり、それを試しているのだから、正解を答えるだけでない趣旨という意味がわからなかったのである。
「如何にこの問題に対して考えるか? 自分の確固たる意見が言えるか? それがこの問題の趣旨であり、問題によっては答えは一つに限らない。一見間違った回答と見えても、視点を変えれば間違っていない事もある。それが論文だ」
この教師は、当時中学生だった私にこういう事を言ったのである。
思えば、私が自分の思考に対して強い意識を持ったのは、この事が原因かもしれない。
その後、高校の時にもやはり現代国語の教師に同じような事を言われ、私は他の生徒とは異なった“変わったヤツ”または“おもしろいヤツ”と言われた。もちろん、この“おもしろい”は“滑稽”という意味とは違う。
その教師は、思考する事の大切さを生徒すべてに訴え続けていたが、生徒の大半は大学受験の必勝法を求めているのであり、この教師の言う事の真の意味など眼中にないようであった。
私はというと、そもそも大学受験の必勝法を学んだとしてもそれは学問ではない、という気持ちがどこかにあったため、ありきたりな記憶に頼る勉強の在り方を嫌っていた。何しろ、中学の頃からそういう傾向が続いてたのである。
おそらく、その教師は私のそんな意識に気づいたのだろう。私は別の意味で、その教師に目を付けられることになったのである。
結局私は大学には行かなかった。
行けなかった、と言う方が正しいのかどうかはココでは言わないが、結果だけ言えば行かなかった。
大学の入試の仕方を勉強するという事そのものを嫌ってはいたが、自分では勉強が出来なかったとは思っていない。
何が真実であるかは問題ではなく、ある意味、私は日本の教育制度に逆らったために大学に行けなかったのかな、と思う時もある。
今回の麻布中学の入試問題は、まさしくこの思考を重視するという、私が臨んでいたスタイルを具現化した問題と言える。時代がようやく私に付いてきた…なん
てのはおこがましい話であり、とても言えた話ではないのだが、単純に記憶力に頼る試験から、如何に理論的に思考するか?
という、純粋に「考える力」が必要だという時代の現れではないかと思う。
高度経済成長期の日本は、そうした「考える力」などなくても、仕事がなくなるという事はなかった。一部の、本当の意味で考える力を持つ人達の才能と、特異な思考力はなくとも勤勉さでそれを大きくカバーする大多数の国民の力で、経済を支えられる構造だった。
しかし、時代は今大きく変わってしまい、単純に勤勉であれば良い、という時代は終焉を迎え、真の意味で「考える力」が必要な時代がやってきた、と私は思っている。
麻布中学の入試に限らず、今後は日本の教育制度が、哲学者や科学者を生み出すような視点で教育方針を打ち立て、優秀な存在を世に輩出できるようにして欲しいと思う限りである。
ちなみに…。
私が尊敬して止まない中国三國時代の大政治家「諸葛孔明」は、このような人物と言われている。
「修めた学問に高いも低いもない。重要なのは修めた学問が役に立ったかどうかである」
即ち、修めた学問を現実に役立てて初めて学問は生きる、という事である。
そしてそれには考える力が不可欠である。
学問の為に学問をする…それが今の教育制度にある試験対策である。この事にどれだけの意味があるのか?
そう考えると、本当の意味で考える力は必要であり、考える力を持つことこそ、これからを生きる術なのではないだろうか?