自分の生活が根本から変わってしまった今、今までと違う流れにまだ困惑する。
介護主体
今年の7月から本格的に私の介護生活が始まった。
母親が要介護判定を受けたのは4月だったが、その時は要介護1だったため、まだ母親は自分で動く事もできていた。
ところがその3ヶ月後には、母親の介護レベルは要介護4となり、完全に介護ベッドから出る事ができなくなった。
この時から、私の生活は完全に母親の介護最優先というスタイルに変わった。
この事を母親の不幸とは思っても私の不幸とは思っていない。
私は今まで、私生活をあまりにもおざなりにしすぎていた。
だから私には天罰が下ったのだろう。
ただ、私の天罰に母親が巻き込まれた事は申し訳なく思っている。だからこそ、母親の介護に関しては私の行動の最優先事項としている。
介護が最優先となった事で、私の一日の流れがガラリと変わった。
朝から母親の朝食の準備、自分の出勤の準備、母親が自宅にいる時の不備がないかの準備等々、やることは沢山ある。
それらを一通り終えた後、私は出勤し、日中は仕事をする。
残業はしたくはないが、残業しないと給料が低すぎて家計を支えられないので、適度に残業して帰宅すると、今度は母親の夕飯の準備に取りかかる。
夕飯の準備をして食べて貰ったら、その片付けを先に行って、今度は私の夕飯の準備に入る。何故別々かというと、母親の食べるものと私の食べるものが一致しないからだ。
私の夕飯を済ませた後、その後片付けをしたら今度は翌日以降の食事の準備に入り、それが終わったら入浴、その後洗濯と続き、最後に就寝前の母親の投薬があって、私の介護生活の終わりが来る。
これを毎日続け、休日は日頃できない自宅作業をする。例えば室内の清掃や洗濯機の清掃、買い物等々である。
これらに費やす時間以外が私の自分の時間になるのだが、必ずしも自分の時間になるとは限らない。
母親は介護ベッドから動けないので、体に不自由が起きると私を呼ぶ事になり、その対応に迫られる。コレをイヤだとは思わないが、呼ばれる可能性を考えると、私の行動はどうしても制限されてしまう。
このような毎日が7月から続いている。
正直、自分でもよく続いているなと思う反面、介護疲れという言葉の意味が体を通して理解する事が出来る様になった。
介護への理解
このような介護という行為そのものを私は今まで経験した事がない。
だから何もかもが判らない中で生活している。
病院で介護保険を申請する事になった際、ケアマネージャーを紹介され、今もそのケアマネージャーに全て相談してやるべき事を決めている。
ある意味、ケアマネージャーが悪い人だったなら、私は簡単に騙されているだろう。
だが、実際には私に付いてくれたケアマネージャーはとても良い人だったので、何とか私の収入でも介護生活が出来るレベルのプランを立ててくれ、今がある。
正直、毎日入って貰っているヘルパーさんの時間を長くしたい気持ちもあるが、そうすると簡単に家計が破綻する事も理解している。
介護保険で9割の補助が出ており、私が一月に介護に利用する金額は3万円強といったところである。いや、消耗品を考えると5万円近いかもしれない。
持ち家でなく、借家に住みながらの介護費5万円はかなり厳しいと言わざるを得ないが、介護保険が下りなければ、もうとっくに破産しているところである。
日本の保健制度に助けられている…それが今の私である。
未来
母親はいつも言う。「早く死にたい」と。
おそらくこれは本心だろうと思う。
介護ベッドから動く事ができない状況なのだから、そう思っても不思議ではないし、これに合わせて体の各所にガタが来ている事から、痛みもあるワケで、そうなればこの世からリタイヤしたい気持ちも分からなくもない。
だが、だからといって私がそれを介助する事はできない。当然の事だ。
ただ単に気持ちは理解できる。それだけなのだが、私は母親に言うのである。
「天寿を全うできればお迎えは来る。今はそれを待つしかない」と。
実際そのとおりなのだが、見ていて辛い時がある。
介護とは、要介護者と被介護者との戦いではなく、要介護者は自分との戦いであり、被介護者は自問自答の繰り返しだと思っている。
母親は自分と常に戦い続け最終的に勝つ事で天寿を全うする。
私は自らに母親との向き合い方を問い続け、どうあるべきかを答え続ける。
歳を重ね、老いると言う事は、本人とその周辺の人にこれらを求めるのではないかと思う。
私の場合は前述したように天罰でもあり、自らの試練として受けるしかない。
この試練がいつまで続くのか?
終わって欲しいという気持ちは勿論あるが、その時には私は大切な何かを失うという事であり、そう考えると終わって欲しくない気持ちもある。
受け入れるしかない現実ではあるが、この現実に抗うことは出来ない。甘んじて受け入れるしかなく、もしこの現実を少しでも楽にしたいなら、人の力を金の力で解決するしかない。
世の中は結局、最後には金の力が物を言う。
人の想いは金でどうにかなるものではないが、介護という行動の肩代わりとして他の人の力を借りるには、金の力は絶大である。
守銭奴のようなコメントで締めてしまったが、これが今の私が行き着いた境地である。
如何にして今の日本に金融知識が必要かという事がわかると思う。
今は不要でも、老いると必要になる。高齢化社会だからそれがハッキリ見えてくる。
私は親の借金を肩代わりした事で、この金の力を持つに至らなかった。
今の若い人は、こうした現実があるという情報を得られやすい環境にいるのだから、今から準備した方が良い。
守銭奴になれという事ではない。如何にして、自らを潤す資金を手に入れるか、という事である。