昨日の記事のアクセス数が600を超えていた。
日ごろ300ほどのアクセスしかない私のサイトとしては珍しい事である。まぁそもそも300もアクセスがある事そのものが私から言えば奇跡的な話であるのだが。
やはり「命」とかそういうキーワードをタイトルに入れると、みんな気になるのかもしれない。
かくいう私もそれは同じである。
一夜明けて、我が家は壮絶極まりない静けさの中にあった。
人間、いつの間にか自分の行動や思考の同意を得られる訳もないのに、自然と家の中にいる動物に話しかけているようで、それがいきなりなくなったのだから、家の中に全くと言っていいほど会話が生まれない。
隣に家族がいても、である。
犬や猫(人によってはそれ以外かもしれないが)の存在感というのは、それほどまでに大きいと言わざるを得ない。
あまりにも静かな朝であったため、私も家族に話す言葉を見つけなければならない。
自分も表面的には平静を装ってはいるものの、まだかなり堪えているようで、思い出せばかなり辛い。辛いのだが、これだけ沈みきった状態だと良いものも良くならないと思い、私は意図的に会話を作る。
そうでなければやっていられない。
17年という歳月は数字にすると「ああ、17年ね」と思うだけだが、赤ちゃんが生まれて高校2年生になるだけの時間と言い換えると、その長さを実感する。
実際、その時間を我が家の犬と共に過ごしてきたのである。ある種、家族同然だ。
だが、死んでしまえば人間と違うため実にあっさりしたものである。
心の中では平静を保てなくても、表面に出る事でやるべき事が全くない。
人間であれば葬儀や初七日とかいろいろなものがついてまわる。しかし、犬であるが故にそうしたものがない。いや、人間のように扱ってあげる事もできるのだろうが、基本的にそこまでする人は少ないのではないかと思う。我が家にしても、せいぜいが犬や猫の葬儀を取り仕切ってくれるお寺でお経を上げてもらい、火葬してもらうくらいのものである(合同葬ではあるが)。
だから一夜明けるとホントに何もない一日が始まる。
こんなにあっさりしていていいのか? と自問自答するが、何をすればいいというのか? と逆の疑問が頭を過ぎる。
こんな経験、二度としたくない。
おそらく、こういった悲しみを知っている人なら誰でもそう感じるだろう。
だが、不思議と私はそう思わない。
今から17年前、実は一度そういう別れを経験してきた事がある。
同じ犬ではあるが、私が小さい頃から一緒だった犬が死んだのが今から17年前の話。
その時にも同じように心が平静でいられないという経験をした。
悲しいとかそういう感覚とはまた違う、居ても立ってもいられない感じ。
今回は、そこに自責の念が加わったために、さらに平静ではいられないわけだが、次はもう経験したくないかというと、意外とそうでもなかったりする。
別に、昨日亡くなった犬から吹っ切れたわけではない。
このいなくなってしまった悲しみ以上の、巡り合わせの幸せを知っているからだ。
だから、もし次に出会う犬(猫かもしれない)が我が家に来たならば、次はかわいそうな事はしたくない。
持てる愛情のすべてで共に生きていきたいと思う。
と、どうしてこんな話をしたかというと、今、このような情操教育が足りないご時世にあると思ったからだ。
ペットの数は年々増加している。人間の子供の出生率は上がらないのに、ペット登録数は落ち込むことを知らない。すでにペットの登録数は人間の子供の出生数を上回っているハズである。
しかし、それと同時に捨てられるペットの数も莫大なものにふくれあがっている。
捨てる? 命を?
何を考えているんだ?
それで子供を真っ当に育てられると思っているのか?
…いや、今の時代、人間の子供ですら捨てるに等しい行動をする親がいるぐらいである。
悲しいが、そういうご時世なのである。
日本は明らかに間違った未来に進み始めている。
米国のマッカーサー元帥の思惑通り(かどうかはわからないが)、日本は米国の隷属国になってしまっている。
古き良き日本人の志は、もう根絶やしにされつつある。
日本が近代国家にならんとした時、ドイツ含む枢軸国に参加した事は結果として間違っていなかったと私は思っている。別にナチスドイツを奨励しているわけではない。人としての生き方として、ドイツ人の持つものと日本人の持つものが比較的似通っているのではないかと思うからだ。
日本が学ぶべきはヨーロッパ諸国であり、米国ではないと私は思う。
…こんな話をするともっと深くややこしい話になるためココで終わる。
とにかく、今の私は心の整理もつかず、この静けさと戦う事で精一杯である。
招かざる静けさではあるが、これもいずれ慣れていくのだろうか?