昨日の続きになるが、実際にある禅寺に行き座禅と滝行を行ってきた。
あえて何処の禅寺なのかは言わないが、この季節は基本的に滝行は行っていないという事だったが、まぁ、私の居合刀剣術の師匠の紹介という事で無理矢理滝行をやらせてもらった。
当然、イレギュラーな事なので万が一何か問題があったなら、それは自己責任という事になるのだが、それは当たり前の話。そんな事は言われなくてもそう思っているワケで、この辺り、世間がうるさい故の問題なんだろうなと思った。
先に言っておくと、この禅寺は一応坐禅会などは一般でも受け付けている所らしいのだが、今回の私はあくまでも特例で訪れているため、メニューは完全特別製。…多分、師匠の計らいでそういう事になっているのだろうと思う。そして私以外の一般はいないのだから、私が既存の修行僧に紛れて修行するという形になったらしい。
とりあえず時間軸を追っていくと、まず私が現地に到着したのは、早朝4:30ごろ。
というのは、この時間からこの禅寺の朝は始まるからである。
前もって連絡していた事もあり、現地に到着したなり、私は他の修行僧の人と一緒になって掃除から始める事となった。ただ、私が4:30までに到着していなかった事に関して怒られるハメに…。ま、修行を受けようという身なら、時間に遅れてしまった事にこそ問題があるわけで、仕方のない事である。
拭き掃除を命じられたのだが…まぁ水の冷たいこと冷たいこと…。ま、そんな事を言っている事そのものが「甘えている」事になるわけだが、この季節の山寺で、水を使った掃除は実に辛いものがある。これを毎日やっている修行僧の人には頭が下がる思いである。
結構掃除したなぁと思って時間を見てみると…まだ朝の5時過ぎ。いや、それでも30分ほども掃除してたのかと思うと、いつもの私からすると長いわけだが、ココでは1時間掃除するそうである。
で、1時間かけて禅寺を掃除した後、5時30分から看経(かんきん)といって、声を出さずに読経する。私は当然の如くお経などしらないのだが、ちゃんと読めるようにしてある冊子があった為、とりあえず形だけは出来るのだが…要するにその中身から真実を見よ、というのが多分師匠が私に課した事ではないか? と思ったりする。…普通に考えて無理じゃないか?w
まぁ、最初から無理と決めつけてしまえば修行にならないので、出来る限りの努力はする。知恵熱が出るんじゃないかと思うほどの時間が経ったな、と思ったら、この看経、僅か10分で終了。しかし、実際に私からすると30分以上は時間がかかっていたように思えた。
毎日同じ事をやっている修行僧からすると、10分も時間はかからないらしい。ま、日々の繰り返しの力ですな。
その後、30分を坐禅に費やす。
坐禅とは…腰を正しく保持する修行と言われていたりするようだ。意外に思うかもしれないが、もちろんその中心には精神修行という意味もあるのだろうが、表面的に見れば腰を落ち着けて正しい形で保持し続ける事ができれば、その姿はかなり安定する。
もちろん、そこから仏道の真理を得られれば良いが、私など到底その領域にはないわけで、腰を落ち着ける事に労力を費やす事になる。
ちなみに、この腰を落ち着けるという行為そのものは、何も坐禅でなくてもできる話らしい。普通に運動をしている人であれば、その運動が正しい姿勢で行われている以上、それは腰を正しく保持できている事になる。ま、身体的な話だけで考えれば、という事ではあるが。
その後、今度は修行僧が生活している寮の掃除を行い、朝7:00に朝食となったが、修行僧と私はここまでが同じでここからは特別メニューへと突入となった。
朝食の後、私は簡単な説明を受けて写経へと流れた。ハッキリ言って、この写経は坐禅をしているよりもずっとしんどい…。何が辛いかというと、とにかく難しいのである。確かに私は書道の経験はあるが、書道とかそういうレベルのものではない。昔のお坊さんは偉大だ…と実感した瞬間である。
とりあえず2時間ほど写経という名の墨と紙の格闘をして、その後の午前10:00から、いよいよ荒行たる滝行を行った。
ハッキリ言おう。この季節にこんな事をするのはバカとしか言いようがない。自分で望んだこととは言え、軽はずみに言うものではない、という事を実感した。これが3月だからよかったようなものの、1月とか2月だったら…死んでるかもしれん orz
ま、今日は3月とはいえ天気があまりよくなかったため、気温がそんなに上がらなかった事が問題。まぁ…普通にオススメしない修行と言える。
その後、再び坐禅を行い、最後に説教(法話)を受けた。
この説教こそ、今回の修行の一番の収穫だったかもしれない。
私の心の弱さと、そしてそれを引き起こす悩み、そしてそれを生み出した自分自身…真実を得たとまでは言えないが、見えてなかったものが見えたような気がした。
ハッキリ言ってしまえば、かなり痛切な事も言われた。だが、要するにそれだけ私がダメだった、という事。
そしてその心の弱さを克服して行くために、剣の修行を続けた方がいいと言われた。
邪推すると師匠がこの坊さんに仕向けた事かもしれないが、私の心の弱さを根底から覆すには、常に気を引き締める部分を持っていた方がいいという事らしい。ま、その言葉の意味するところは理解できる話ではある。
坊さん曰く、私は坐禅において実に安定しているらしい。姿勢が決して悪いわけではなく、また端から見ていると無心ではないかと思えるような所もあるらしい。
おそらく、剣の修行で基本は出来ているのではないかと思う。ただ、ここぞという時に心の弱さが出てしまい、本来の実力の半分も出ない…そしてその事を気に病んでさらに落ち込んでいく…この負のスパイラルが起きる事で、根底の精神が脆く崩れていくのではないか、と。まぁ、この辺りは○○だから○○という決まった法則があるわけではない話であるため、それを完全に把握できるのは私自身のみ…。私が安定するには、如何に負のスパイラルを起こさないようにするか? という事であり、楽をしている自分が甘えないようにするか? という事である。
その為にも剣の修行を続けた方がいい、というのは理解できる話である。
さて、どうしたものか…。
今日のBlogの中身は、基本的には体験した事を羅列したのみである。
最後の方は精神部分に触れはしたが、説教の内容等については、とても書き切れるものではないし、理解も難しい話になる。
なので、あくまでも表面的な事のみ触れてみた。
修行というのは、結構一般の人でもやっている事らしく、ネットで検索すればワサワサ出てくる。
ちなみに私が今回体験したところは、実に人気がなく、一般の人はほとんどこないという話だった。まぁ、そもそもそうした一般の人を受け入れて儲けようとか考えてはいないようなので、宣伝などを本格的にやるつもりもない、との事であった。
もし、悩んでいる事が多く、またどこかで気を引き締めないといけないが、中々できない…という人がいたら、形だけでも坐禅が出来る禅寺に行ってみる事をオススメする。
坐禅の意味する所がわかると、そうした思いが随分と軽くなるのではないかと思う。
ま、そういう風に感じる人もいる、という事ではあるが、実際にそうやって立ち直っていく人も多いらしい。
一度お試しあれ。
さて…問題は私だな。
実は根底から解決したワケではないのである。坊さん曰く、根が深いとの事。そして私自身にもいろいろな問題があるとかで、世俗ならではの問題とちょっと違うらしい。
まぁ、それでも根底は同じ。大前提を覆してしまえば問題など些末なこと…らしい。
…それが出来れば苦しむ事などないのだが(-_-;)