そろそろ母を退院させる事になるが、その後の介護をどうするか?
失語症?
母が先月入院する際に会話を失ってしまってから、母は相変わらず言葉を話す事がない状態が続いている。
当Blogでも記事にしたが、母に病院で会った時には既に会話する事ができなくなっていたし、多少落ち着きは取り戻していたものの、こちらの言葉は理解できるレベルにあったと認識している。
自分の伝えたい事が伝えられないという事に、当初は相当焦りを感じていただろうが、この時には多少は落ち着きを取り戻していたので、コミュニケーションが全くできないという事ではないものの、やはり今後の介護の中で伝えたい事が伝わらないという状況と付き合っていかねばならない事に違いはないだろう。
私は医師ではないので、正確にそうだという事は言えないのだが、この今の状態は母が失語症になったという事ではないか、と考えている。担当医から明確に「失語症」と言われたわけではないが、こちらの言葉は理解出来ているだろう事を考えると、おそらくは運動性失語に分類される失語症ではないか、と。
ただ、今回の件がある1ヶ月前に起きたのは、呂律が回っていないような話し方になったという問題だったので、完全に運動性失語と言い切る事が難しく、感覚性失語もある程度発症している可能性はある。
どちらにしても、失語症ならばリハビリができるわけで、脳をとにかく刺激して神経伝達をもっと広げていく事をすれば、話せるように戻るかもしれない。
あくまでも可能性の話でしかないが、可能性だけでもあるだけマシ、と思うしかない。
リハビリ
とにかくコミュニケーションを取るしかないらしい。
顔を合わせれば挨拶をして、言葉がでなかったとしてもこちらから話しかけ、ジェスチャーと共に話しかける事を繰り返すしかない。
また、どちらかというとこれは受け手となる私の問題だが、焦らず、言葉以外の身振り手振りで会話する事を心がけるしかない。
そして実は一番難しいのが、家族の対応である。
家族は人間関係として遠慮が無いので、言葉を話せない者の意図をくみ取って先回りして言葉を発したり、行動したりする。
過剰に先回りすることは、言葉を話せない者からすると本人の意思ではないところで事が進むことになるので、話せないという事が意思と反する結果を生み、それが本人にとってマイナスに働く結果を招きやすい。
なので、過剰に先回りする事はせず、あくまでも本人の意思によって、イエス・ノーで答えられるようにするとか、選択肢から得られる意思決定とするようにした方がよいらしい。
焦らず、慌てず、ゆっくりとジェスチャーを組み合わせて本人の意思を聞く。
家族は特にこれらに気をつけて失語症と向き合っていく必要があるようだ。
脳という不可思議
脳梗塞の時にも感じたが、脳というものは実に不思議な部位である。
人間を人間たらしめている部位でもあるわけだが、ココがダメになった瞬間に人間が普通の人間として生きていく姿を失ってしまう。いや、こういう言い方は倫理的にダメかもしれないが、今まで普通だったものが、いとも簡単に普通でなくなるのである。
だが、それと同時に脳内の血流を良くすることで、ダメだった脳が一気に回復し、元に戻る事もある。母の最初の脳梗塞の時、発症2日目の姿を見たときは絶望的だったが、その後発症一週間を過ぎた時に見た姿は、限りなく普通に戻っていた。
人間はどうにかして元に戻ろうとする力が働くので、脳にしても左脳がダメなら右脳が機能代替を開始する。認知症も今はそうした動きがあまり見られないかもしれないが、研究が進んでいけばそうした機能代替によって元に戻る可能性もなきにしもあらず。
なので、症状をみて絶望を感じるよりも、今は生きる事を考え、その後に繫いでいける情報をとにかく見つけるしかない。
運が良ければ回復方法に出会えるかもしれない。
今、私はそれぐらいの心構えでいる。
さて、明日はもう一度病院に行き、ケアマネと今後の介護方針を決めてくる予定である。
会話を失った母とケアマネの邂逅は、母にどんな福音をもたらす事になるのだろうか?