自宅での介護生活を送るようになってから特に感じる事がある。
イマドキのBlogの意味
当Blogを長年読んで戴いている人ならわかると思うが、当Blogはかなり長い間更新され続けている。
今でもBlogの右サイドに、その履歴がずらっと並んでいるが、2007年5月から今までのアーカイブが残されている。各月の右隣に括弧書きで数字が書かれているが、これはそのアーカイブ内に保存されている記事数になっている。見ればわかるが、その数字は各月の日数に一致する。
つまり、2007年5月から枚日分の記事が保存されており、その数は5,946件にのぼる。
自分でもまぁよく続いているな、とも思うし、その大部分が今では無駄な内容でしかない。
有用な事を書いていたとしても、その情報そのものはリアルタイムな話ではなく、あくまでも過去の事であり「あの時私は何をしていたか?」という事を振り返るには良いが、それ以外に役に立つ事はほぽない記事である。
当Blogは、そもそもが生存確認の意味がある。
それは過去にも記事にした事があるが、私の前々職に関わった人が、私のBlogが更新されている事で私が生きているという事を確認する目的という事。
しかし、今やX(旧Twitter)やInstagramといったSNSが当たり前の時代になってくると、生存確認はそうしたSNSの方が簡単であり、時代と共に私のBlogの役目はもう終わってしまったとも言える。
それでも今まで続けてきたのには、もう一つの理由があるからだ。
とにかく文章を書くことを辞めてしまうと、何かと文章を書くという行為が億劫になり、出来なくなってしまうので、それを防ぐという意味で続けている。またこれで文章を上手く書けるようになりたいという気持ちもあるが、駄文を書き続けていても上手くなる事は考えにくいので、その希望はとても薄いという事は今ではもう理解している。
そんなワケで、当Blogのイマドキの意味を考えると、継続する意味がもうないのではないか? と考えるようになった。
といいつつも、まだ書き続けているわけだが。
Xの有効活用
X(旧Twitter)が、その在り方を変えようとしている。
インフルエンサー達はこの在り方の変化でいろいろと大きく変り始めているとは思うが、もともとBlog記事の更新情報ぐらいしか発信しない私は、この在り方の変化には大きな影響を受けない。
なのでこの在り方の変わりようそのものをどうこういうつもりはないのだが、X(旧Twitter)の在り方が変わることで、私もBlog中心だった発信をX(旧Twitter)に移行したらどうなるか? と思い始めた。
前述した生存確認という意味では、X(旧Twitter)でも情報が発信されていれば用は足りる。自分で文章が書けなくなるかもしれないという不安要素に関しても、X(旧Twitter)でのポスト(いまやツイートとも言わないらしい。なら140文字の制限も取っ払えばいいのに…)をする際には僅かでも文章を書くので、意識して憶測変換を使わない事で用は足りるように思える。
目的と手段を考えれば、何もWordPressを使ったBlogで無くても良いように思えてくる。
X(旧Twitter)でもその役割は十分果たせそうだし、それならそれで…と思い始めた。
Threadsはダメと思っている
ただ、そうなるとSNSの中でも何が良いか? とか考え始める事になる。
X(旧Twitter)だけでなく、今や他にもSNSは存在する。
Meta(旧Facebook)がTwitter対抗アプリとして提供を始めたThreadsも選択肢になるかもしれない。…ま、実際にはInstagramとの関わりが強すぎて私としては選択肢にはならないのだが、SNSも多種多様なのは事実だ。
ただ…どうせなら波及力のある媒体が良いと言うのもある。
そうなると、もうX(旧Twitter)しか選択肢が無いような気もする。
ただ、X(旧Twitter)は活用するには有料会員になるしかないところが最近はあるし、他のWebサービスとの連携も難しいところがある。
もう少しX(旧Twitter)というものがどういうものなのかを理解しないと、活用する事など難しいだろう。
という事で、未だそのスタイルを変更できずに今のままの形で続けている。
この形が今後も望ましいとは思っていないので、ある日突然更新を止めるかもしれないし、続けるにしても形を変えるかもしれない。
小難しい事を考えてばかりで、実行が伴っていないのは昔からの私の悪い所である。
分かってはいるが、変わろうとして変われない今の形を変えないと行けないという事は理解しているつもりである。