文字は読みたくない、という人もいるかもしれない。
表現の一つではあるが…
仕事で、今、大量の文書に囲まれている。
QMS…という言葉を聞いたことのある人ならわかると思うが、私の今の仕事は、会社に医療機器を製造する為の品質マネジメントシステムを構築する事である。
最も、私はそもそも専門家ではないため、私がゼロからそのシステムを創り上げるなんて芸当はできないのだが、外部で製作したシステムを社内に取り入れ、それを運用できる形へとする事が私の業務だったりする。
品質マネジメントシステムというのは、要するに全ての業務を標準化…つまり手順として文書化し、誰でも同じ品質で業務を行う事ができるようにするというシステムである。
従来、日本人ならこんなシステムなどなくても高品質なものを製造する事が出来るのだが、多民族国家である西の大国や、通貨で危機を迎えている国を内包する州などでは、阿吽の呼吸というものもないので、こうした文書による標準化が必要とされ、QMSなるものが生まれ、運用されてきた。
ところが日本でも最近はグローバル化を進めていくウチにこうしたQMSというものが求められるようになってきた。
特にこのQMSの必要性が強いのは、航空機産業であり、現在はほぼ米国の手法がスタンダードになっている。
医療機器もそうしたQMSを必要とする産業なのだが、医療機器は国毎に法律があり、日本だと薬事法…というのは昨年までの名称で、今は医薬品・医療機器等法という法律があり、その法律を運用するために厚生労働省が発令しているQMS省令、GVP省令などが存在している。
解らない人からすると「何がなんだかサッパリだ」となると思うが、そうした法律を遵守する為にも、決まった基準と決まった手順の下で仕事をするというシステムが必要なのである。
こうしたシステムを作るとき、どうしてもその表現として「文字」が選ばれる。だから紙や電子媒体で文字を列記し、そうした基準や手順を全社員に周知する、というのが普通のQMSの定着化に使われる手段だったりする。
だから、どうしてもこの業務は文字と付き合っていかなければならない。
文字は読むことさえできればある程度の周知は可能だからだ。
だが、文字は理解するのが難しい。絵などのイメージの方が、本当はわかりやすいのだが、法律をはじめQMSに関係するものの全ては、文字によって構成される。
わかりやすそうで実は一番理解されない。
文字はそうしたジレンマと共にある、ある種、不憫な伝達手段である。
文字が嫌いな人
私が思うに、ほとんどの人は文字が嫌いなのではないかと思う。
ちょっと長い文章を書くと、その時点で読まないという人が多い。
ウチの会社でも、伝達手段にメールを使う場合、理解しやすいようにと修飾語を多用すると内容が長くなり、そうした内容でメールを送ると、全く読まずに伝わっていない、なんて事が多々ある。
そういう、読まない人、つまり伝わっていない人は必ず同じ事を言う。
内容は箇条書きでいい、と。
ビジネスの世界でも、まず結論から書く、というのが常識とされるが、箇条書きで書くことと結論から書くという事を同義に捉えている人もいるから困りものである。
箇条書きでは、端的にモノは伝わるが、真意が伝わらない事が多い。
もちろん、長々と文章を書いても伝わらない事も多いのだが、少なくとも意図がそこに見え隠れする。
しかし…問題はその見え隠れする真意を読めない人が多いという事。つまり、意図を伝える為に長文になり、結果、それでも伝わらないという、最悪の事態を迎えるのである。
私は思う。
文字はその行間にこそ意味がある、と。
ビジネスの世界に行間は不要だ、という人もいるかもしれないが、それは結果を追い求めるが故の話である。
だから、情報として伝達するのに行間は不要というのは理解できる。しかし、それはその意図や真意を理解せずに結果だけを追い求める事をしたとしても、人をちゃんとつなぎ止められるのなら、という前提の話だ。
結果だけを追い求める成果主義の会社だとしても、人の成長を考慮する余地を持つ会社なら、結果だけでなく、そこにある真意や意図はちゃんと理解すべきではないか? と私は思うのである。
想像できなくなった現代人
テレビやネット動画がバンバンと情報として流れる現代。
私は時々思うのだが、こういう視覚と聴覚に直接訴える情報媒体に慣れてしまった現代人は、相当に想像力が欠落し始めているように感じる。
明治時代に近代文学が発達したが、その当時にはテレビなんてものもなく、あるものと言えばラジオくらいのものではないかと思う。
ラジオからは音は聞こえるが、視覚情報がない。だから音を聴いてその奧にあるものを想像するしかない。
小説にしてもそうである。挿絵なるものもあるが、入ってくる情報のほとんどは文字だけであるため、その文字から紡がれる言葉の中から、自らイメージするしかない。
その文字から想像するイメージを、時として行間を読む、という言い方をしたりするが、私は現代人はもっと行間を読む事で、想像力を豊かにしないとイケナイのではないかと思ったりする。
もちろん、より簡単な視覚と聴覚に訴える動画というものを否定するわけではないし、そちらの方がダイナミックではあるとは思うが、それに慣れてしまった結果が、想像力の欠落だとするならば、それはものすごくもったいない話ではないかと思う。
かつて、昭和の時代に生まれた伝説の漫画家たちは、自らの想像をコマの中に描かれた絵として表現した。そしてそのコマ割りでストーリーをダイナミックに魅せ、名作をいくつも生み出していった。
現代の漫画家は、絵の技術は遙かに向上したが、ストーリーテラーとしての能力が欠如している…という話を聞くことがあるが、それは明らかに想像力の欠如から生まれた現象であるし、コマ割りによる演出が出来なくなったのも、同じく想像力の欠如によるものと言える。
そしてその想像力の欠如が、そうしたエンターテイメントの話だけでなく、普通のビジネスの中でもいろいろと問題を引き起こしているように思うのである。
その一つがコミュニケーションの問題。
先程の、文字だけでは伝わらないという事もその一つである。
もし、QMSの文書が文字だけで伝わらないとしたならば、いつかはQMSの手順までマンガ化する時代がやってくるのか?
…それを真っ正面から否定できない自分がいる事に、まず驚愕してしまうのである。
だから…というわけではないが、私は文字をただ羅列し書くだけの事はしたくない。
ちゃんとそこから伝わる文字として列記したい。
そこに書かれている文字が、ちゃんと伝わるところにこそ意味がある。
だから私は文字を書くのではない。泥臭いかもしれないが、そこに意味を持たせるが如く、文字を紡ぐのである。
それが例えビジネスに使われるQMS文書であっても、だ。
文字を紡ぎ、行間で伝わる…いや、行間が読めるようにする為に紡ぐのである。
ある種、とても地味で、とてもムダに終わるかも知れない行為。
今の私は、そうした積み上げていくだけの事を業務としている。
理解されない事には慣れた。
だからこそ、私は紡ぎ続けるのである。