以前から比べると比較的静か…。
雨は夜更け過ぎに…
この季節になると必ずテレビから流れてくる曲。山下達郎の「クリスマス・イブ」だが、オリコンによると30年連続でこの時期の週間オリコンチャートのTOP100入りをしているそうである。
まぁ…オリコンなのでほどほどの話だな、と私などは思うのだが、それにしても30年連続とは凄まじい。
というか、クリスマス時期にこの曲を聴かない年がないという感じなだけに、そう言われても当然と言えば当然かもしれない。
世にクリスマスを歌った歌は数多いが、それにしてもこの山下達郎の曲は根強い。
ヒットに繋がったきっかけは、JR東海の「ホームタウン・Express(クリスマス編)」のCMソングになった事らしいが、シングルが発売された当初は驚くほどのヒット曲ではなかったワケだから、如何にテレビCMに使われる事がヒットに繋がるか、という好例のような曲ではないかと思う。
お祭りとして
クリスマスは日本人にとってどこかお祭りのような所がある。
別に極度にキリスト教徒が多いワケでもないのに、イベントという形で根付いてしまった。元来日本人はお祭り好きが多いという事かもしれないが、ただお祭りが好きというだけでこのクリスマスがお祭り騒ぎになったわけではない、と私は思っている。
というのは、逆にキリスト教徒が多いところは、極度のお祭り騒ぎになっていないワケで、日本人にキリスト教徒が少ないからこそ、バカみたいなお祭りイベントになったのではないかと思う。
そもそも、聖人キリストの生誕を祝うものであって、厳かであるべきものなのだから、信者からすればめでたい事はめでたいとしても、バカみたいに騒ぐものという認識はないのだろうと思う。
この辺り、一神教と多神教とでも違いがあるのではないだろうか。
最近では、このクリスマスよりもハロウィンの方が、日本人にとってお祭りとして盛大に盛り上がっているように思う。クリスマスは徐々にその方向性を変えてきている…いや、やはりハロウィンに追いやられているように思える。
日本人、飽きっぽいな(爆)
宗教を必要としないという事
昔…といっても前々職の時の事だが、とある知識人に言われたことがある。
「宗教を必要としない民族ってのは、相当に満たされているって民族だよ」
もともと、宗教と呼ばれるようなものは、ほとんどが人々の願いから生まれるものであって、それは自然を信仰した事で生まれたり、厳しい境遇から生まれたりしたとしても、その根底には必ず人々の願いがあるものだという。
奇跡を願う。
そこまで大げさでないにしても、そういった人知では及ばない事に対して、超人知を期待して宗教は生まれていく。
だから、その宗教を必要としないという時点で、人々は切実な願いを持っていないという言い方ができるわけで、今の日本人は神道や仏教、その他いろいろな宗教の形だけを受け入れたとしても、その本筋にあるものを必要としていないように思う。
実際、私もそうなのだろう、と思う。
途上国の人々からしてみれば、何と恵まれた環境か。
だが、人間という生き物は「慣れ」の生き物であり、今の日本人は、この神を必要としない日本の生活が生まれた時からソコにあり、当たり前だと信じて疑わない。
ちょっと政治の話
いつもはあまり書かない政治の話を少し。
おそらく、まともに取り合ったら、私は批判を買う事になるかもしれないが、あくまでも一つの考え方として捉えて欲しい。
集団的自衛権が強行採決の結果決定した時、戦争法案として反対していた人が数多くいた。確かに米国が戦争したとして、そこに日本人が何かしらの関与をしていたとしたならば、自衛隊は戦地に赴く可能性がこれで出来たと言える。
それに対して反対する気持ちももちろんわかるが、日本は米国がいない状態で自国を自衛できるだけの戦力を持っていると言えるのだろうか?
米国が絶対的正義だとは思わない。
だが、その米国がいなくなった時、もし何らかの形で日本が侵略の危機に立たされたとき、日本は自国を自衛できるだろうか?
答えはNoである。
絶対的物量で責め立てられれば、日本は絶対に勝てない。これが現実である。
欧米諸国との関係から考えてみても、日本という国の国際的貢献の一つとして、海外の人は日本で集団的自衛権が採決されたという事に対して賛成派が多かった。
では何故海外の人は戦争はしないにしても自衛の為の軍隊を持つ事に対して否定的な人が少ない、いやいないのだろうか?
それは長い年月をかけて自由を勝ち取る為に戦い続けてきたからである。
自由の為に戦い続け、多くの血が流されてきた歴史があるから、自らの自由を守る為に武器を手にする。
だが、日本はどうか? 残念ながら、日本の今ある自由は、米国によって与えられたものであって、勝ち取ったものではない。それが太平洋戦争の結果である。
もちろん、全てがそうだとは言わない。だが、大筋において日本の自由は勝ち取ったものとは言い切れない。
先程の話に戻るが、日本人は宗教を必要としないほど、強い願いがあまりない国だと私は思っている。もちろん、その願いにもいろいろあるから、決して強い願いがない事はない、という人もいるかもしれないが、生きていく上で神に願わざるを得ない人は少ない…というか、ほぼいないと思う。
宗教を形だけ受け入れ、本質を必要としない体質は、この願いがない、という所と強く結び付いて、自由を与えられたからではないか、と私は思うのである。
もし、日本人が自由を勝ち取るために戦い続けてきた民族であったなら、自国の自由を守る為の権利を今よりもっと強く願うだろうし、その行為と戦争をイコールとして考えないと思う。
クリスマスから何故…
書いていて脱線はしていないと思っているのだが、どうもクリスマスとの繋がりを明確にすることが難しくなったので、この辺りで話は止めておこう(爆)
どちらにしても、日本人は宗教的にクリスマスを祝っているのではなく、あくまでも形としてイベント化しているに過ぎない。
そしてそのイベントとしての話題性は、もう既にハロウィンにその格を譲り渡してしまっている。
だからだろう。
以前から比べるとクリスマスの盛大さは徐々に失われ、ウチの近所でもイルミネーションを出している家が少なくなった。
逆に、ハロウィンの時はイルミネーションだらけだったが(爆)
とりあえず、私は日本という国における宗教的イベントは、そこに加わる中の人にとって、既に形骸化してしまっていると思っている。
それでもやらないよりはいい、という人もいるだろうし、形骸化してしまっていては意味がないという人もいる。
しかし、それでも何か騒がしい事をしている、という事実だけは変わらない。
願わくば、そんな事実だけであっても、好意的に見てくれる神がいてくれたなら…と思ったりする。
最後に。
今回、最近にしては過激な内容を書いたかも知れない。
私は集団的自衛権を好意的に受け止めているのではなく、考え方として必要だと言われればそれを否定する事ができないでいるだけであり、そこにそれ以上の感情も理念もない、という事を明確にしておく。
ま、私如きがほざいたところでそれが騒ぎになる事はないだろうが…。