広く普及する環境がそうさせるのか?
狭くなるネット世界
人種差別や性差別など、不特定多数を対象とし、なおかつその個人の偏見によって発言される内容の中に、差別だからといってその発言そのものを強く批判、そのままその発言者個人の存在そのものを追いやってしまう事件が最近多発している。
その事件の発端となる発言者の多くは、公人である政治家や、地位ある会社役員だったり、著名人だったりするわけだが、その事そのものが、言論の自由というものに保証された行為だと言う人が誰一人言わないのは何故なんだろう? と、時々私などは思ってしまう。
もちろん、差別的発言をしても良い、とは思っていないし、立場ある人がその発言をする事によって、強い影響力を持つ事を問題視する事は間違ってはいないとは思うのだが、そもそも差別的発言そのものも、その人個人の考え方に寄るところなのではないか? と思う時があるのである。
というのも、私はこのまま行くと、ネットの世界は言論の自由をどんどん脅かし、最終的には「おりこうさん」な発言しかできなくなるのではないか? と思えてならないのである。
特に日本では、ちょっとした社会的問題に対して有名人が発言すると、その発言に配慮がない、とかTPOに問題がある、なんて言い方で、その発言者そのものを攻撃するような側面があったりする。
何故「その人個人の考え方だ」という思考の流れにならないのだろうか?
反対意見はマイノリティすぎて受け入れることはできません、という社会的な流れを感じてしまうのは、私だけだろうか?
少なくとも、その発言に差別的な言葉や意味が入っていたとしても、それはその人個人の発言であって、そこに悪意があったとしても、それを理由に個人を攻撃してよいという事にはならないと思うのだが…。
不思議と納得できてしまう事も…
ITmediaで、このような記事が掲載された。
ITmedia
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1603/02/news081.html
女性に対する差別的発言、という内容だから批判されても仕方が無いのかも知れないが、この問題発言の記事を読んで、なぜだか不思議と納得できてしまう自分がいたりもする。
「ああ、たしかにそういう側面があるかもしれない」
単純にそう思っただけで、全ての女性がそうではないとも思うが、そういう人もいるなぁ、と思ってしまうわけである。
また、別の言い方をするならば、このような側面は何も女性に限らず、最近は男性の中にもこういう人がいるなぁ、とも思う。
だから、この発言そのものは「女性をターゲットとした発言」にしてしまった事が問題という事なのだろうか?
もし、これが女性をターゲットにした発言でなかったなら、問題視されなかったのだろうか?
ただ、相対的、全体的、大凡、などなど、そういった括りで纏めてしまったとしても、確かにそういう側面に思える事ではなかろうか?
少なくとも、私はそう思ってしまった。
そしてこの記事には書かれていないが、男性側にもこの意見とは異なる問題点が顕在している事実も間違いなくある。この記事だけでは、女性のみを悪者にした言い方になってしまっているが、この人個人の考え方として捉えた時、その反対意見が出てくる事は難しい。何故なら、発言者は男性であって、自分の側に顕在する問題点に気がつきにくいからである。
だがその事と男性そのものが批判される事とは別の事に思えてならない。
最近は、そのあたりの線引きがとても難しく、随分と発言に関して狭くなったな、と思えてしまうのである。
狭いのはネットの世界か? それとも人の心か?
ネットがココまで拡大していなかった時代、特定の存在を差別するような事を言う人達に対して、世間はその人を嫌う事はあっても、あからさまに攻撃する事はあまりなかったように思う。もちろん公人であったり著名人であればそれなりの制裁はあったかもしれないが、ネットで炎上、みたいな事はなかった。
ところが、ネットという集団の意見が簡単に集まってしまう環境を手に入れた人々は、そうした嫌うべき人を見つけた場合、一人に端を発し直後攻撃に転じるようになった。もう簡単に炎上するのである。
別に私は差別発言をする人を擁護しているわけではないのだが、本来なら広いハズのネットが、そうした情報拡散の末に、著しく狭くなっているのではないかと思えてならない。
それはネットという環境が狭くなったわけではないハズなのだが、感覚的に随分と狭くなったように思える。
だが、それは本当の事を言えばネットが狭くなったのではなく、単純に人の心が味方を得やすくなってより狭くなっただけではないか? と思えて仕方が無い。
誰かの発言に対し、嫌悪感を感じたから追放した、という事が、いとも簡単にできてしまうのではないかと思うのである。
どうして「その人の考え方だな」とか「自分はそうは思わないが、そういう風に考える人もいるのか」とならないのか?
私は、人の意見に対して論破できればそれで良い、とは思わない。理論的に考えるだけが人の思考ではないし、いろんな考え方の元に次のステップがあると思っている。
だから、何でもかんでも批判するのではなく、誰かが主張した事に対して反対意見を言うことで対抗すれば良いのであって、ただ「不適切である」というだけの意見はいらないと思う。
例えば、先程のITmediaの女性差別の意見であるならば「たしかにそういう見え方もあるかもしれないが、昨今では何も女性に限った話ではないと思う。全ての女性を対象として言うのは乱暴すぎるのではないか」という言葉で良いように思う。
それでも差別は良くない
と、ここまでは実におりこうさんな発言をしてみたワケだが、それでも差別はよくないという、更なる、おりこうさんな意見をここで述べておきたい。
発言する側も、もっと思慮深く発言すべきである。
ネットは簡単に公に発言できる環境であるわけだから、本来ならもっと慎重に意見を言うべき場所である。まして、公人であったり著名人であれば、自分の発言がどの程度の影響力があるか、などは常に意識しておかねばならない。
私の様な一個人の発言であれば、タダの戯れ言ですんでしまうものでも、公人や著名人であればそれではすまない事など、簡単に解る事である。
ネットは、そうした危ういものである、という認識が社会的に薄いというのも問題である。おそらく、日本はこの認識という部分が最も薄いのではないかと思う。
その危うさの中で、ネットを使用する人すべてが発言しているという事を理解出来れば、何を言えるのか、また何に触れてはいけないのかなどが分かるハズである。
ただ、私が現代においてもっとも恐れるのは、そうした“何を言えるのか、また何に触れてはいけないのか”が、日常的に解らない人が多くなっているという事。
最近思うのは、そうした日本人としての道徳の部分であるとか、常識である部分において、どう見ても欠落しているという人が増えているように思えてならない。
戦前の日本人では考えられなかった事が、現代では容易に起きる時代である。
この問題は、語ればもっと複雑かつ長くなる話なので、ココではこれ以上言わないが、そうした目に見えない世代問題が社会問題となり、今のネットに波及してしまっているのも、軽率な発言が増えている一因ではないかと思う。
私自身、かなりきわどい事を今回発言しているのではないかと思う。
だが、こういう発言が出来なくなる世の中は、実に窮屈で狭苦しく、自由を損なっているように思えてならない。
他人の意見は意見として受け入れ、その人が批判に値する人であるならば、その反論を以て批判し、一部でも受け入れる事のできる時代がやってくる事を、私は望まずにはいられない。