先日、J-cast 会社ウォッチというサイトに、こんな記事が載せられていた。
J-cast 会社ウォッチ
入社2年目童顔女子「フェイスブックに、会社のコト書いちゃダメですか?」
http://www.j-cast.com/kaisha/2013/05/05174457.html
記事の中身はとりあえず置いておいて、SNSに会社の事を書いてよいのかどうかを判断できない世代が今の世代なのかな? と思いつつ、ドコまで書いて良くてドコからダメなのか? また実名を出していないから良いのか? 等、そういう判断が出来ない人が、この広大なネット上に溢れている時代なんだな、という時代の流れを感じた。
自分の知り得ている事をネット上に書くという事を全否定するつもりはない。私だってその一人だから。だが、それが業務的な事であったり、或いは何かしらビジネスに関係するものだったりするときは、私は結構慎重になっているつもりである。
人によっては、実名を出さないで情報を書くという事は無責任である、とする人もいて、それも分からなくもないのだが、もし全てにおいて実名で、しかも情報漏洩というリスクが付いて回るという事を考えた時、そうなってしまったならネットに情報など書き込んだりする事が一切できないのではないかと思ってしまう。
耳に入ってくる情報にも噂というものがあって、その噂には信憑性が全くない。前述の話になってしまうと、ネット上には噂と言える情報が一切なくなってしまう。これは情報が行き交う時代の中でイノベーションを大切にしなければならないという最近のビジネスの流れと一部逆行してしまうのではないか? と私的には思えてならない。
では、会社の事をネット上に書き込むという事にどんな問題があるのか?
まず、会社がこれから行おうとしている企画などが個人の情報発信で他に露呈してしまうと、明らかにビジネスの損失となる。この記事を書いた人の会社では次にこんな企画をするらしい…なんて事がライバル会社に知れようものなら、先手を打たれるに決まっている。
ではこれが自分の実名と会社名を伏せて書き込んだ場合は問題がないのか?
いや、それはそれで問題だ。どこの会社がやるかは分からないにしても、こういう事を企画する会社があるのなら自分達もやった方がいいだろう、とアイディアを側面から与える事になる。知的損失だ。
と、このような流れになると、自然とネットに書き込める情報は限られてくる。自分が情報を流すことで、その影響がどんなものになるのか? これを予測できないのなら、会社の事をネット上に書き込まない方が無難だと思う。
そもそも情報が価値のあるものになったのは、何時の頃なのか?
多分、人間がこの世の中に出てきてからずっと情報は価値のあるものだったに違いない。例えば、まだ狩猟民族だった頃に、獲物がよく捕れる場所を知っているヤツは他のヤツより優位に立てる存在だったに違いない。また、桶狭間の戦いで織田信長が今川義元の軍勢を破ったのも、大雨になるという情報を信長が漁師から得ていた事が勝因だった。つまり、人は他人より知っている事が多い事そのものが多分に価値のあるものと言える。
インターネットと呼ばれるものが出てくるまでは、情報の流れはある一定の地域に縛られるもので、地域から地域へと伝播するのに相当の時間がかかっていた。ラジオやテレビというものが世の中に出てきた時は、情報の流れは広域にはなったもののその情報は一方通行でしかなく、今ほど情報の取扱が難しいという側面が表に出てこなかった。
しかしインターネットはそもそも個人が双方向の情報を扱えるという時点で、その情報の取扱のハードルは一気に下がってしまった。しかも即時性があり、伝播範囲はとてつもなく広い。ハードルが下がったことで、誰もが手軽に情報を得ることができる時代がやってきて、次はその情報の真偽を自らが判断できる能力を求められるようになる。そして同時に自らが発信する情報の責任を自ら負うという時代へと流れた。
こうした変遷を経て、情報というものの考え方をちゃんと理解している人なら、多分「会社の事をフェイスブックに書いちゃダメですか?」なんて事を言ったりしないハズだ。
情報というものがとてもありがたいものでそれに責任が伴うという事を、真に理解していないから、安易な考えで情報を漏洩してしまうのである。
変な例えになるかもしれないが、ある種この情報発信の判断が付かないという事は、現代人が抱える現代病の一種と考えてもよいのかもしれない。
今の時代、情報が飛び交っているのが当たり前の事であり、現世代人は生まれた時からインターネットが存在していた世代である。そうなると、情報は誰もが受取れ、誰もが発信できる事が当たり前であり、それに責任が伴うなんて事そのものが想像も出来ない事なのかも知れない。
となると、誰かがその事を教えていかなければならない。いわゆるワクチンだ。
しかしこのワクチンにも問題がある。それはこの現代病がウィルス性のように常に変化し続けていて、ワクチン自体にその効用の問題が突きつけられるからだ。
教育者と被教育者は、生まれた世代が異なるのは当たり前かもしれないが、世代の違いがあまりにも大きい場合、教育者は何を教える必要があるのかを把握できない可能性が高い。日本の教育の問題は、このジェネレーションギャップにこそあるように思えてならない。ワクチンもこのギャップに常に合わせた形で用意する必要があるワケだ。
そしてこの問題はおそらく日本だけの問題ではないハズだ。急激な文明の進歩で先進国となったアジア諸国には、同じような問題が散見されるに違いない。
正しい情報は常に一定の価値がある。
自分には不要でも必要としている人がいるのなら、その情報には間違いなく価値がある。
そしてその情報が今や商売のタネになり、知っている事が付加価値を呼ぶ。
この事を今の世代に誰かが伝えた方がよいのだと思う。
もし、この説明が難しいのなら、オークションに例えればきっと現世代人に伝わるはず。
自分には不要なものでもそれを高値で買う人がいる。情報は、まさしくそれと同じだ。
単純な事だが、それを誰かが教えないといけない時代に入ったのかも知れない。
難儀な事である。