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Daily Archive: 7月 13, 2015

巨匠、瞑する

いろんな世界にも巨匠はいる。この人も巨匠だったと私は思っている。

HAL研究所

任天堂が、代表取締役社長の岩田聡氏が胆管腫瘍のため逝去したことを今日、正式発表した。
亡くなったのは7月11日で、享年55歳だった。随分若くしての逝去と言える。
岩田聡と聞くと、ほとんどの人は任天堂の社長のイメージしかないのではないかと思う。多分それは間違っていないし、それが一般的である事に何ら疑いはない。
だが、ちょっと昔からIT系の事に詳しい人だと、岩田聡と言えばHAL研究所と答える人もいるかもしれない。少なくとも、私はその一人である。

株式会社HAL研究所が会社として成立したのは1980年の事である。この年、西武百貨店の店員を中心とした5人のメンバーでHAL研究所は設立された。当時、岩田聡氏は大学生で、HAL研究所にはアルバイトという形で参加している。
HAL研究所のHALという名称は、IBMから来ているという事は意外と有名な話である。IBMより一歩先を行く、という意味から、それぞれのアルファベットの一つ前、つまりIの前のH、Bの前のA、Mの前のLでHALと名付けられている。
HAL研究所の設立当初はパソコン関係(当時はマイコンと呼ばれていたが)の周辺機器を開発していた。当時発売されていたパソコンの周辺機器として、画像表示とサウンド能力を向上させるユニットPCGシリーズはヒット作である。
会社設立3年後の1983年、任天堂があの傑作機ファミリーコンピュータを発売するのだが、時を同じくして岩田氏は大学を卒業してHAL研究所に正式に社員として入社した。
そう考えると、岩田氏が社会人になった年にファミコンが生まれるという、ちょっと因縁めいたものを感じる。

このHAL研究所を中心に岩田氏の任天堂との繋がりが展開していくのだが、もともとHAL研究所は任天堂と取引をしていた会社の出資で作られた会社であり、その関係からHAL研究所は早期からファミコンのサードパーティとして参加していた。ファミコン初期の名作と私が思っている「ピンボール」は、このHAL研究所の開発であり、他にも「GOLF」、「バルーンファイト」、「F1レース」の開発にも携わっている。
特に「バルーンファイト」は曰く付きのソフトで、プロデューサーはあの横井軍平であり、その開発に岩田聡も参加している(正確に言えばアレンジに参加しているという事になるのだが…この話はWikipedia参照)。

その後、HAL研究所は1992年に倒産することになる。1990年山梨オフィスを構え、不動産ビジネスに手を出したのだが、ゲームソフトの売上げ不振とバブルが崩壊した後の不動産投資失敗という結末を迎えた為である。
その際、取引先の任天堂の支援を受ける事となったのだが、その任天堂の山内社長が出した条件というのが、岩田聡を社長とする事だったというから驚きである。
これにより、HAL研究所は任天堂の支援の元、再起を図る事となる。
その後、HAL研究所はハード部門とソフト部門に分社化されるのだが、ハード部門を担っていた株式会社ハル・コーポレーションは結局2002年に解散した。
本体であるソフト部門を担っていたハル研究所は1993年に100万本を超えるヒット作「星のカービィ 夢の泉の物語」を製作、見事再起が叶った。
このハル研究所での社長就任の中で、岩田氏の経営手腕が評価され、岩田氏は2000年に任天堂に入社し、その2年後に任天堂初の同族社長以外の社長就任という事となった。
この大抜擢の社長就任以降、岩田聡という名が世間に大きく広まっていったと言える。

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