伝える側が想定している事がそのまま伝わるとは限らない。
ダルビッシュ選手の例
私がよく閲覧するimpressのPC Watchというサイトにおいて、そのPC Watchの記事をメジャーリーガーのダルビッシュ有選手が見たそうで、そこに書かれている事が理解できないというツイートがTwitterに公開された。
この数年で一番敗北感を感じた。
リプでこの商品くれって来たから調べました。パソコンに詳しくない自分が最後まで読みきった結果、何に対しての商品かすら理解できんかった。
結局これはなんなんや。。https://t.co/sSvg7Iag1b— ダルビッシュ有(Yu Darvish) (@faridyu) October 20, 2019
このツイートの元となった記事は、NVIDIAのGeForce RTX 2080Tiのレビュー記事だったわけだが、私が読むと別段理解できない内容ではなかった。
だが、よくよく考えて見るとPCの知識が全くない人が読めば、確かに理解に苦しむ内容かもしれない。
そもそも「GPUって何さ?」なんて話もあるわけで、NVIDIAが未だ謎の企業と呼ばれている理由も頷ける。
同じ半導体を製造しているIntelに関して言えば、Intelで作っているものでPCが動いている、という理解はほとんどの人にあるかもしれないが、NVIDIAで作っている半導体は何をするものなのか?を知る人はぐっと少なくなるわけである。
私は、昔からパソコンが好きで、長い間そのパソコンの変遷を見てきた。それこそ、パソコンという名前が登場した頃から、パソコンからPCと呼ばれるようになった時期も含めての話である。
その流れから、こうしたテクニカルな記事を読んでも、大凡意味は理解できるし、改めて詳細な情報がなくても言っている意味はわかる。
だが、PCではなく、今まで全く興味のない話をされたなら、私もきっと何を言っているのかわからない、というような記事を見る事もあるだろう。専門分野になればなるほど、その内容は一般の人の理解を超えたところで語られるものだからだ。
このダルビッシュ選手の話は、その後PC Watchの記者によってよりかみ砕いた記事が書かれ、その記事を見たダルビッシュ選手が大凡理解できた旨をツイートしている。
わざわざ分かりやすいように書いてくださいました!
だいぶ理解できました!
ありがとうございます^_^https://t.co/vSbrtX9j5L— ダルビッシュ有(Yu Darvish) (@faridyu) October 20, 2019
おそらく、PC Watchの記者はいつも通り、専門的な情報を欲する人に記事を書いただけだが、結局それは伝えたい事を特定の人には届けられても万人には届けられていない、理解されていないという意味である。
どちらかが悪い、という事ではなく、伝えたい目的と理解される事とに、常にイコールがついて回るわけではない、というのがネットでは起き得る話というだけの事である。
テキトーなライフスタイル
私のBlogは、私のテキトーな生活をただ垂れ流しているだけのものだが、私の主観がかなり強いので、おそらく理解できる人はあまりいないのではないかと思っている。
私も今回の例のPC Watchの記者のように、特定の知識を持っていたり、関係していたりする人に向けて情報を書いたりしているだけなので、万人受けする書き方を全く想定していない。
いや、おそらく世の中のBlogライター(世間ではブロガーという)のほとんどは、万人向けの記事は書いていないと思う。
読み手側に関係知識はあるものを前提として記事を書いている可能性が高い。
専門性の高くない記事ならもちろんそれでも問題なく受け入れられるが、専門性が高くなればなるほど、この前提知識の必要性は高くなる。
多分、私のBlogは、前提知識がある程度ないと理解に苦しむものが多いハズなので、今回のダルビッシュ選手の例は、自分の記事に対する姿勢を見直す良いキッカケになったと思っている。
そもそも想定外
ただ…実は私のBlogはもともと特定の人にしか見せる事を想定していない。
一応「テキトーなライフスタイル」を書き連ねている体をとっているが、そもそも宣伝するような行為をしていない。
なので、訪れる人はほとんどが検索して引っかかったという人ばかりで、統計を取ってもリピーターはほとんどいない。
時々、気に入って貰えた人からコメントを貰ったりしているが、それが特定の人に固定している理由はまさにリピーターが少ないという理由を如実に表している。
なので、私がもっと万人向けのサイトを作る事を想定しないかぎり、前提知識を必要とする書き方が変わる事はないかもしれない。
というか、可能性としてはその方がずっと高い。
だが、このBlogに限らず、人が誰かに何かを伝えようとした時、それが必ずしもその人の想定通りの理解を得られない可能性がある事は、考えておくべきだと、今回の例で感じた。
ひょっとしたら、世の中の作家が書いた文学小説なども、その作家が想定した評論を得られていないかも知れない。文学もいろいろ研究されてはいるが、作者の想定と相違ない事を確認した例はそうそうないのである。
人の理解を得る事の難しさは、人が人である以上、永遠のテーマになってしまうのかもしれない。
仏教用語では「以心伝心」という言葉があるが、まさに人が「以心伝心」を得られるという事そのものが、仏の領域にある事なのかもしれない。