(function() {function signalGooglefcPresent() {if (!window.frames['googlefcPresent']) {if (document.body) {const iframe = document.createElement('iframe'); iframe.style = 'width: 0; height: 0; border: none; z-index: -1000; left: -1000px; top: -1000px;'; iframe.style.display = 'none'; iframe.name = 'googlefcPresent'; document.body.appendChild(iframe);} else {setTimeout(signalGooglefcPresent, 0);}}}signalGooglefcPresent();})();

巨匠、瞑する

いろんな世界にも巨匠はいる。この人も巨匠だったと私は思っている。

HAL研究所

任天堂が、代表取締役社長の岩田聡氏が胆管腫瘍のため逝去したことを今日、正式発表した。
亡くなったのは7月11日で、享年55歳だった。随分若くしての逝去と言える。
岩田聡と聞くと、ほとんどの人は任天堂の社長のイメージしかないのではないかと思う。多分それは間違っていないし、それが一般的である事に何ら疑いはない。
だが、ちょっと昔からIT系の事に詳しい人だと、岩田聡と言えばHAL研究所と答える人もいるかもしれない。少なくとも、私はその一人である。

株式会社HAL研究所が会社として成立したのは1980年の事である。この年、西武百貨店の店員を中心とした5人のメンバーでHAL研究所は設立された。当時、岩田聡氏は大学生で、HAL研究所にはアルバイトという形で参加している。
HAL研究所のHALという名称は、IBMから来ているという事は意外と有名な話である。IBMより一歩先を行く、という意味から、それぞれのアルファベットの一つ前、つまりIの前のH、Bの前のA、Mの前のLでHALと名付けられている。
HAL研究所の設立当初はパソコン関係(当時はマイコンと呼ばれていたが)の周辺機器を開発していた。当時発売されていたパソコンの周辺機器として、画像表示とサウンド能力を向上させるユニットPCGシリーズはヒット作である。
会社設立3年後の1983年、任天堂があの傑作機ファミリーコンピュータを発売するのだが、時を同じくして岩田氏は大学を卒業してHAL研究所に正式に社員として入社した。
そう考えると、岩田氏が社会人になった年にファミコンが生まれるという、ちょっと因縁めいたものを感じる。

このHAL研究所を中心に岩田氏の任天堂との繋がりが展開していくのだが、もともとHAL研究所は任天堂と取引をしていた会社の出資で作られた会社であり、その関係からHAL研究所は早期からファミコンのサードパーティとして参加していた。ファミコン初期の名作と私が思っている「ピンボール」は、このHAL研究所の開発であり、他にも「GOLF」、「バルーンファイト」、「F1レース」の開発にも携わっている。
特に「バルーンファイト」は曰く付きのソフトで、プロデューサーはあの横井軍平であり、その開発に岩田聡も参加している(正確に言えばアレンジに参加しているという事になるのだが…この話はWikipedia参照)。

その後、HAL研究所は1992年に倒産することになる。1990年山梨オフィスを構え、不動産ビジネスに手を出したのだが、ゲームソフトの売上げ不振とバブルが崩壊した後の不動産投資失敗という結末を迎えた為である。
その際、取引先の任天堂の支援を受ける事となったのだが、その任天堂の山内社長が出した条件というのが、岩田聡を社長とする事だったというから驚きである。
これにより、HAL研究所は任天堂の支援の元、再起を図る事となる。
その後、HAL研究所はハード部門とソフト部門に分社化されるのだが、ハード部門を担っていた株式会社ハル・コーポレーションは結局2002年に解散した。
本体であるソフト部門を担っていたハル研究所は1993年に100万本を超えるヒット作「星のカービィ 夢の泉の物語」を製作、見事再起が叶った。
このハル研究所での社長就任の中で、岩田氏の経営手腕が評価され、岩田氏は2000年に任天堂に入社し、その2年後に任天堂初の同族社長以外の社長就任という事となった。
この大抜擢の社長就任以降、岩田聡という名が世間に大きく広まっていったと言える。

任天堂

岩田聡と任天堂。おそらくこの組み合わせで一番最初に思い浮かぶのはニンテンドーDSかもしれない。
既にPlayStationという巨大なプラットフォームと戦う事なった任天堂は、ニンテンドー64、ゲームキューブというハードでこれと真っ向勝負するのは難しいと考えられていた時代である。
その時に、岩田氏は減り続けているゲーム人口を取り戻す為、一般のライトゲーマーとコアゲーマーの両方にインパクトを与えるには、ゲーム自体をリッチに作れば良いというだけの問題とは異なる次元にその問題があるのではないか? と考えたのかも知れない。
そこで登場したのがニンテンドーDSだった。
タッチパネルと2画面という、別に技術的には何ら真新しいデバイスではないものを組み合わせ、それを携帯機という形で提供したそのハードは、発売した2004年の年末年始だけで150万台という爆発的なヒットハードとなった。
その2年後の2006年、今度はWiiというリモコンデバイスを使ったコンシューマ機を発売する。この頃の話は…多分今の人でも分かるだろうから、詳しい話は割愛しよう。

もっとも、華々しかったのはこの辺りまでである。
その後、ニンテンドー3DSはソコソコのヒットとなったが、Wiiの後継機であるWii Uは惨憺たる有様であり、ライバルのPlayStation陣営には全く叶う事のないハードと評されている。
また、ソフトにおいてもハードが売れないから良作があまり出てこない。出てきても任天堂本体のソフトばかりであり、サードパーティが付いてこないという状態だから、結果として良いものとは到底言えない状態である。
だが、だからといって岩田氏の業績が没落するわけではない。
彼は歴史に名を残すほどの名作を残した経営者であり、また開発者である。

開発者?

私の、岩田氏の最も好きなエピソードに「プログラマはノーと言っちゃいけない」というのがある。
これは「どんな困難なプログラミングが想定されたとしても、ノーと言った時点で企画そのものが駄目になるから、とにかく実現を目指し、無理だった際の代案も考える」という理念だそうで、事実岩田氏は相当に困難なプログラミングもこなし多くのゲームを完成させていったという逸話がある(Wikipedia参照)。
この発想は経営者というよりは、ディレクターやプロデューサー的な視点での話ではあるのだが、実に的を射た話である。
「できない」と言ってしまえば簡単なのである。
しかし、その言葉を採ってしまったなら、それに関わるものの根底が覆される事も多々あり、まさしく企画倒れになる事などざらにある。
しかし、まずできないという結論を出す前に、いろいろな視点から問題解決に向けて検討する。当たり前の事かもしれないが、これはどちらかというとメンタルの部分の話であり、これを素で言える岩田氏は流石である、と私は思う。
こういうのは、何もゲームやプログラムだけの話ではないのだ。

また、面白いと思ったのはインタビュー企画「社長が訊く」である。
この企画は元々Wii発売までのPR活動の一環として行われたもので、社長自身が、自社の開発者にインタビューをするという企画だったのだが、結果的にその枠を大幅に超え、後にはニンテンドーDSの新作やサードパーティ発売の作品のインタビュー、自社の新サービスや就職活動への広告を対象としたりなど、その幅は広がり続けていた。いわば、任天堂ホームページの名物企画である。
私的には若干「ヤラセ?w」と感じる所もなかったわけではないが、それでもこうしたアピールをしていく活動そのものが必要と考えていたというのは、岩田氏の経営手腕の一つではないかと思う。
また、部下との言いたい事を言い合える関係を構築する上での一つの形としても、私はとても良い事ではないかと思う。

Thank you for everything

そんな岩田氏は開発者として私はやはり巨匠と言える人だと思っている。
何かを成し得た人。
そういう意味で考えれば、間違いなく歴史に名を刻んだ人と言えると思う。
そして任天堂というゲームを世に送り出したメーカーの代表を務めたという意味で考えれば、その業績から考えても偉人であったと思う。
国内のゲーム市場は、任天堂の独壇場だったが、岩田氏が社長就任となる頃には、PlayStationという巨大な存在があり、それと戦っていかねばならない重圧は常にあったと思う。
そうした中で繰り出してきた手法は、横井軍平氏の「枯れた技術の水平思考」の理念を元にしたニンテンドーDSであり、Wiiだった。
アイディアで覆す。
これは、兵法でいうならば数の少ない軍隊が数の多い軍隊と戦って勝つ、というぐらい難しい事である。
そうした、激しい戦いを繰り広げてきたPlayStation陣営は、今回の岩田氏の訃報に対しTwitterで「Thank you for everything, Mr. Iwata.」とコメントした。

PlayStation.com Twitter
https://twitter.com/PlayStation/status/620412765849546752

ご冥福をお祈りしたい。

任天堂の後任は決まっていない。
現時点では任天堂の代表取締役は、現代表取締役専務の竹田玄洋氏、宮本茂氏の2人体制となる事が発表されているのみである。
会社としては、複数の取締役からなる取締役会で重要な決定が成されるため、岩田氏がいなくなってもどうにかなるような事はないが、ゲーム開発という部分においては影響が大きいのではないかと思ってしまう。
DeNAと業務・資本提携を行い、スマートデバイス向けのサービスを共同開発する事を決めている任天堂が今後どのように動いていくのか?
岩田氏のいなくなった任天堂がどのように舵を切っていくのか気になるところである。

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

Share
アバター画像

武上

18歳の時、人生の最大の選択ミスをしてしまい、いきついた場所として山梨県人となる。 その後、建設業に身を投じ、資格をいくつか取得するものの、結局自分の性格と合わない事を理由に上京。 上京後、世間で話題になりつつあったアニメ・ゲームを主体とする業界の人間となり、デジタルコンテンツ業界を含む数々の著名人と同じ土俵でマルチメディアな仕事をするに至る。 一見華やかなメディアの世界の、その闇の深さたるやハンパない事こそ世間に何となく知られてはいるが、業界人しか知らないその氷山の全体像を十分すぎるほど目の当たりにした後、家庭の事情で再び甲州へと帰還。 しかし、この帰還も人生の選択ミスだったかもしれないなぁ…と今では思うものの、時既に遅し。 今は地元の製造業を営む会社の総務・品質保証という地味ではあるものの堅実な職につき、いつか再びやってくるだろう夢の実現を信じて隠者的生活を送っている…ハズだったのだが、またしても周囲の事情で運命は波乱の様相を見せ始めた。 私の人生は一体どの方向を向いているというのだろうか? ちなみに筆者はPCとの付き合いはかなり長いと思っている。 古くはPC-8801 mk2 SR、X1 Turbo、X68000、FM-Towns、PC-9801シリーズ(互換機含む)、PowerMAC 9500等をリアルタイムで使い、その後は、Windows PCの自作機を中心に現在に続いている。 デジタルガジェットに関しては興味もある事から、その時代の時々において、いろいろ使ったり調べたりして、専門家ほどではないが知識は蓄えてきたと思っている。 そうした経験を元に、今の時代へ情報発信させてもらっている。少々くどい言い回しが多いかも知れないが、お付き合いいただけるとありがたい。 連絡先:takegami@angel-halo.com (@を小文字にしてください)

You may also like...

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


コメントは承認待ちです。表示されるまでしばらく時間がかかるかもしれません。

Desktop Version | Switch To Mobile Version