エコと人々は言うのだが…

エコという言葉をここ最近聞かない日はない。
エコポイントで家電を売ろうとするCMもあれば、エコドライブと車を売ろうとするCMもあり、テレビを主媒体にしてエコという言葉はもはや日常にありふれた言葉になっていった。
たしかに地球に優しいエコ活動は必要な事だと思う。
だが、そもそもエコ活動する必要があるような生活を人類がしてきたという事を誰も言わない。
産業革命以来、人類の文明はめざましい発展を遂げたわけだが、それは逆に言えば自然活動から逸脱した行為を繰り返してきた証でもある。
そしてその行為が今自然を破壊している事に気づき、今頃になって軌道修正をしようとしているワケで、人々はエコという言葉を使い始めた。 ではエコとは一体何を意味している言葉なのだろうか?
マスメディアが奏でる洗脳のようなCMで、エコの本質を世間の人は見ていないのではないか?
そういう私もそういう一人なのではないかと、思えてならない。 自然に学びながら、エネルギーの転換(1)
http://kankyomedia.jp/report/20090813_58.html (現在リンク切れ)

上記リンクの記事は、藤家洋一氏という前原子力委員会委員長 東京工業大学名誉教授の書いた講演録である。
この講演録に面白い事実が書かれている。
サイエンスという分野に興味のある人なら知っている事かもしれないが、実は20億年前に地球に原子炉が存在していた事は意外と知られている事である。その詳細もこの講演録に書かれているが、愛媛県の伊方にある原子力発電所と原理はほとんど一緒だという。つまり、プルサーマル型の原子力発電所と同じ仕組みのものが自然に存在していたワケである。しかもこの天然原子炉は制御棒の存在もないままに安定して80万年も稼働していたのである。
その原理や意味する所は上記リンクの講演録を読んでもらうとして、こういう記事を読むと、エコという言葉の本質は“自然をまねる”というところに本質があり、人間は自然に行われている行為を人間単位の時間に置き換える術を見つける必要があるという事ではないかと思えてくる。
風力や太陽光、地熱を利用した発電にしても、それらのエネルギーを人間が日常的に使用する電気エネルギーに変換する事に全てが繋がっている。だが、自然もそうしたエネルギーから大気を動かし、結果、稲妻という電気エネルギーとして放出しているとも言える。自然は極々普通にエネルギーの変換を行っていると言えなくはないだろうか?
そして上記リンクを読んだ後、こちらも目を通してみるといいだろう。

自然に学びながら、エネルギーの転換(2)
http://kankyomedia.jp/report/20090814_59.html (現在リンク切れ)

この記事も藤家洋一氏という前原子力委員会委員長 東京工業大学名誉教授の書いた講演録で先ほどの(1)の続きである。
こちらの記事を読むと「要するに原子力発電は危険だが環境を考えるとそちらにシフトしていなければならないという言い訳」という読み方も出来てしまうかもしれない。
先に言っておくと、私は別に原子力発電推進派でも反対派でもない。
ただ、化石燃料を燃やして発電する方法はもはや時代遅れであり、環境を見据えた生き方ではないという事は間違っていないと思っている。
だから私は今の原子力発電所の発電方法にも多少なり疑問がある。もちろん、最新の原子力研究ではその疑問も杞憂なのかもしれないが、研究でなく実利用という部分で、その最先端が活かされていなければ意味がない。
原子力は恐ろしい技術だから使用しない、で済まされればそれもいいかもしれないが、もはや人類の生活で使用する発電量を風力や太陽光、地熱、推力だけでまかなう事は不可能だろうと思う。
そうした時、原子力発電の恐ろしい部分を無くす事で電力確保できるのならば、それが最も効率のよい話になってくるのではないだろうか?
そしてその恐ろしい部分をなくす為にも研究が必要であり、何をどうする事が恐ろしい事なのかを知る必要があると思う。
自然が何万年と行っていた事を、人間の生活時間レベルに置き換える事のリスクは、そういう研究によって埋めていくしか道がない。
そして、その結果と行為がエコという言葉に置き換わっていく。
人々が生活の一つ一つの行為の見直しで環境保全というのも一つの方法だろうが、抜本的なところを言えば、そうした危険と思われるような研究に対しての理解行動も、立派なエコ活動と言えるのではないかと思う。
原子力を反対する人々は、原子力の危険性を訴えているのだろうと思うが、その危険の先にあるものを見据えているのだろうか?
もし見据えていて反対というのなら、そういう主張もアリだろう。
だが、目の前の事ばかり見ていて先に見据えているものがない状態で反対しているのであるのなら、まずその研究の先に見えるものを理解するところでエコ活動してみてはどうだろう?
エコという言葉の本質は何なのか?
きっと人によってその答えはバラバラだろう。
私は、前述したように地球環境を考える研究の理解も一つのエコ活動だと思っている。
石川県金沢市に在住していた私の中学時代の話だが、とある大学生からアンケートと称した電話が一本あった。
能登に建設される原子力発電所についてのアンケートだと言っていた。
中学生がどういう考えを持っているのかを調査しているという事だったが、私はその時その大学生にこう言った。
「石川県は電力を隣県の福井県から購入している。自分の県で消費量を支えられないからだ。福井県といえば、原子力発電所が多い県で有名だけど、もしその福井県の原子力発電所で融合炉融解などの問題が起きたとき、石川県は無事でいられる保証があるだろうか? それならば、自分の県で消費量を確保する事で、負荷を分散させる方がより安全ではないのか?」
正直、中学生らしくない答えだと自分でも思った。
だが、当時の私はこれぐらいの知識はあったし、実際そう思っていたのだから仕方がない。
アンケートの大学生は私に中学生らしくない答えだと言ってその電話を切った。関心したのか、それとも呆れたのかは分からない。
だが、私は全ての物事はハイリスクハイリターン、ノーリスクノーリターンだと思っている。何かでリスクを背負った者は得られる物も多いが、リスクを背負わないものは得られる物はない。虎穴に入らずんば虎児を得ず、である。
保守派の人にも理由はいろいろとあるだろうが、全てに反対する事のその意味をもっと考えるべきだ。
そしてその考えの先に、それでも反対だという結論が出るのなら、今度はその反対から生まれる別方向の答えを模索すべきだと思う。
ただ反対する事に意味はない。
反対するからには、別の道筋を示すべきだ。その道筋が見えないのなら、せめてその道筋を模索する行動はすべきだ。行動も伴わない反対に意味はない。私はそう思っている。
化学反応支配時代から環境循環支配時代へと回帰する時代に来た事で、エコという言葉が持つ意味が多様性を見せ始めたのではないかと思う。
もっと人々はエコという意味の本質を知るべきだろう。
何がエコなのか? 知らずにメディアに踊らされていては、本質を見失うというものである。

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武上

18歳の時、人生の最大の選択ミスをしてしまい、いきついた場所として山梨県人となる。 その後、建設業に身を投じ、資格をいくつか取得するものの、結局自分の性格と合わない事を理由に上京。 上京後、世間で話題になりつつあったアニメ・ゲームを主体とする業界の人間となり、デジタルコンテンツ業界を含む数々の著名人と同じ土俵でマルチメディアな仕事をするに至る。 一見華やかなメディアの世界の、その闇の深さたるやハンパない事こそ世間に何となく知られてはいるが、業界人しか知らないその氷山の全体像を十分すぎるほど目の当たりにした後、家庭の事情で再び甲州へと帰還。 しかし、この帰還も人生の選択ミスだったかもしれないなぁ…と今では思うものの、時既に遅し。 今は地元の製造業を営む会社の総務・品質保証という地味ではあるものの堅実な職につき、いつか再びやってくるだろう夢の実現を信じて隠者的生活を送っている…ハズだったのだが、またしても周囲の事情で運命は波乱の様相を見せ始めた。 私の人生は一体どの方向を向いているというのだろうか? ちなみに筆者はPCとの付き合いはかなり長いと思っている。 古くはPC-8801 mk2 SR、X1 Turbo、X68000、FM-Towns、PC-9801シリーズ(互換機含む)、PowerMAC 9500等をリアルタイムで使い、その後は、Windows PCの自作機を中心に現在に続いている。 デジタルガジェットに関しては興味もある事から、その時代の時々において、いろいろ使ったり調べたりして、専門家ほどではないが知識は蓄えてきたと思っている。 そうした経験を元に、今の時代へ情報発信させてもらっている。少々くどい言い回しが多いかも知れないが、お付き合いいただけるとありがたい。 連絡先:takegami@angel-halo.com (@を小文字にしてください)

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