ムダな人生の精算

今だからこそ考える自分の人生のムダ。

考えているようで考えてない

最近、自分が如何にしてムダな人生を歩んできたかという事を実感している。
いや、人によってはムダではないと言われるかも知れないが、ある一つの絶対基準を元にして考えると、結構どころか相当ムダな人生を歩んでいて、絶対基準に対しての自分を引き上げるという行為をほとんどしていないな、と感じるのである。
その絶対基準というのは、全ての人に対して平等の価値基準を持つもので、時には「汚いもの」として扱われるものである。
勘の良い人ならピーンと来たかも知れないが、その絶対(価値)基準とは「お金」の事である。
結局の所、お金を基準にして考えた時、私は自分の人生に関して結構ムダが多かったな、と実感するワケである。正直、私自身は自分の為には「稼げない存在」であり、その結果が今の自分を見事に反映していると思うワケである。
変な話、私より若くて、しかも人生としてゼロの起点から年収数千万円とか稼ぐ人がいるわけで、それらの人から比べると、如何に自分の人生にムダが多く、稼げるタイミングを失っていたり、また稼ぐ手段を講じてこなかったか…。一見、考えているようで、実は考えていなかった、そんな人生である事はもう見るからに明白で、一定の人生を歩んできた私としては、今それに気付いたとしても、もう遅いのではないかとすら思えてくる。
人生が常に階段であるとも限らないただ、何も気付かなかったよりは良かったかも知れない、とも思っている。今から稼ぐ手段を講じるように動けば、まだ間に合うかも知れない。

お金が絶対基準なワケ

ただ、前述したように、世の中はお金ではなくもっと信念とか心のある人としての価値の方が重要だ、という人もいる。私はそれを完全には否定したりはしないが、一つだけこの価値基準に問題があるという事を提起しておく。
それは、信念とかいうものは、その人個人の価値感でしか意味の成さないものであり、他人からしてみれば価値など微塵もない場合がある、という事である。
汚いと言われるお金は、残念ながらそこにいる人全てに平等の価値感を与えるものなので、他人と自分との比較において、これほど正確なものはないのである。
ただ、単純にお金とは言っても、全てがキャッシュで表されるわけではない。
例えば、稼ぐ事のできるスキルなんかも、ある意味お金と同等の価値感があると言えるかも知れない。そのスキルを使って平等基準であるお金を一定値稼ぐ事が出来る事がわかっているなら、それはもう他人との比較において正確な基準を見出す事のできるスケールになるだろう。
そうした、お金を稼ぐ事ができる基準、そして稼いだお金そのものが、絶対基準として他人と比較しうる基準たる要素を持っていると私は思っている。
何もかもがお金ではない、と頑なに言われる人もいるかもしれないが、本来、人生のゆとりと呼ばれるものは、一定の生活を保障する金銭があってはじめて言えるものである。ゆとりの為だけなら稼ぎすぎる必要は無いが、一定の生活をしていく上では、ある一定額の金銭はどうあっても必要なのである。それを理解できない人はいないと思う。

世の中の変化

今回、この新型コロナウィルスの蔓延によって、私は世の中の考え方や生活の在り方、そして価値基準までもが大きく変化し始めたと思っている。
それは労働というスタイルの変化から、金銭への考え方にも影響を及ぼし、挙げ句の果てにはこのネットを取り巻く社会の中で、許される事とそうでない事、原理原則に則っているだけではダメな事、人の本当の意味での優しさとは何か? など、実に様々な変化が起き始めている。
そんな中で、前述した絶対基準というべき「お金」に関しても、こんな時代だからこその変化があったように思う。
いや、正確にはその予兆は新型コロナウィルスの蔓延よりずっと前からあったし、既に予兆という枠を超えた変化があったと言える。ただ、今回の新型コロナウィルスの蔓延により、経済が危機に陥った事で、ようやく人々がそのお金に対する変化に気がつき始めた、と言えるかも知れない。
お金とは、既に貯める時代から運用する時代へと変わっていたという事は、私も気がついていたのである。ただ、気付いていながらも、何もしてこなかった。それが今という状況を作っているに過ぎない。
だから、冒頭に「考えているようで考えていない」という見出しを書き出した。
昔のように、会社に勤めてそこで給与を貰って活きていく。そして給与から貯金をして生活していけるレベルで散財して活きていく。完全に昭和のスタイルであり、平成はその延長上にあった。だが、気づき行動に移した人は、既に平成の世の中にあってその変化に対応していた。そこに明確な明暗が生まれたと言える。

今、何をすべきか?

だからこそ、迷い、考える。
今、何をすべきなのか?
惰性で生きる道を進むのも自由だし、この変化に乗じて自らの進むべき道を変えるのも自由だ。
絶対的価値であるお金を得る為に、自らの立ち位置すらも変えていく事もできる。
私は自分を振り返ったとき、確かに惰性で生きてきたかな、と感じた。
そして生活の危機を迎える度に、何かそこから脱する方法はないかを模索したつもりだったが、今まではどうやら考えているようで考えていなかった。
だからこそ、今変えなければ、変え時を失うような気がしてならない。
自分の状況が変わってしまう変化は好きではないが、時代が今その変化を求めていて、この変化についていけないと、結局は絶対的価値感を得る事なく流されていく。そんな気がすると同時に、おそらくそれは未来予知。
他人と比較する必要など無い、という考えもあるが、それは生き方であって価値の話ではない。何か共通の基準で比較する上では全ての人に平等の価値をもたらすもので比較するしかないのだから。
勝ち組であるとか負け組であるとか、そういう言葉には興味はないが、絶対的価値感において、一定の価値がある、とされる方が、自らを納得させるに足る理由となる。

そんな事をこの週末に考えていた。
自分の価値を相対的に見る事を考えた時、基準となるべきものが結局は稼ぐ力だったと気付いた時、自分の大きなムダに挫折した。そんな話である。
この先、一度しかない人生において、このムダをどうやってなくし、そして状況を好転させていくのか?
課題はまだまだ積み上がっていくだろう。

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武上

18歳の時、人生の最大の選択ミスをしてしまい、いきついた場所として山梨県人となる。 その後、建設業に身を投じ、資格をいくつか取得するものの、結局自分の性格と合わない事を理由に上京。 上京後、世間で話題になりつつあったアニメ・ゲームを主体とする業界の人間となり、デジタルコンテンツ業界を含む数々の著名人と同じ土俵でマルチメディアな仕事をするに至る。 一見華やかなメディアの世界の、その闇の深さたるやハンパない事こそ世間に何となく知られてはいるが、業界人しか知らないその氷山の全体像を十分すぎるほど目の当たりにした後、家庭の事情で再び甲州へと帰還。 しかし、この帰還も人生の選択ミスだったかもしれないなぁ…と今では思うものの、時既に遅し。 今は地元の製造業を営む会社の総務・品質保証という地味ではあるものの堅実な職につき、いつか再びやってくるだろう夢の実現を信じて隠者的生活を送っている…ハズだったのだが、またしても周囲の事情で運命は波乱の様相を見せ始めた。 私の人生は一体どの方向を向いているというのだろうか? ちなみに筆者はPCとの付き合いはかなり長いと思っている。 古くはPC-8801 mk2 SR、X1 Turbo、X68000、FM-Towns、PC-9801シリーズ(互換機含む)、PowerMAC 9500等をリアルタイムで使い、その後は、Windows PCの自作機を中心に現在に続いている。 デジタルガジェットに関しては興味もある事から、その時代の時々において、いろいろ使ったり調べたりして、専門家ほどではないが知識は蓄えてきたと思っている。 そうした経験を元に、今の時代へ情報発信させてもらっている。少々くどい言い回しが多いかも知れないが、お付き合いいただけるとありがたい。 連絡先:takegami@angel-halo.com (@を小文字にしてください)

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